2016.10.30

宗教改革を生きる 』〜光の中を歩む〜(Ⅰヨハネの手紙1:5〜10) 宗教改革の三大原理として知られるのは、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」です。それに加わるもう一つの大切な原理こそが、「万人祭司」です。全てのキリスト者は、神の御前に「王の系統を引く祭司」であることをペトロは示しています。“あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。(Ⅰペトロ2:9)”・・・マルティン・ルター宗教改革を始めた当時のローマ・カトリックでは、聖職者と信徒を上下関係に分け、聖職者の中にも段階を作る制度がありました。ルターはこれを批判し、神の御前には上下関係や段階のような差別はなく、すべての人は神の御前では等しく尊い存在であることを告げました。そのためプロテスタント教会においては、基本的に牧師と信徒の上限関係はありませんし、あってはならないことです。ただし、それぞれに委ねられた職務の違いを重んじ、敬い合うことなのです。
 とりわけ、本日の御言葉に示されている「光の子として歩む」ために強調されているのが、「悔い改めと罪の赦し」の問題です。私たちは知っています。救われたキリスト者であれば、誰もが主なる神の御前に祭司として、自らの罪の赦しを受け取ることができるばかりでなく、同時に教会共同体における互いの罪の赦しのためにも執り成し合うことができるということを。聖書が教える「悔い改め」は、今まで罪の道を歩んでいた私たちの心の変化、すなわち私たちの物の見方、価値観、生き方が変革され、私たちの生活のすべてが今までとは全く異なるものとして変えられることを意味します。この変化は徹底的なものであり、その人の内面と外面の両方の変化を含みます。ですから、キリストの教会共同体は、悔い改めを通して光の子とされ、新しい命をいただいた者同士が互いの罪を告白し合い、執り成し祈り合う群れに変わっていくのです。共同体の一人一人が、本当の悔い改めを体験し、真の意味での罪の赦し合う恵みの中に生きていくことができれば、その共同体は、イエス・キリストの十字架の愛がもたらす恵みと信仰の命に満たされ、常に宗教改革の実を結ぶことになるでしょう。
 願わくは、小泉町教会の神の家族一人一人がイエス・キリストの十字架に出会い、悔い改めへと導かれ、罪赦された恵みと喜びに満ち溢れますように。悔い改めは信仰の結果であり、信仰によって結ぶ実です。真の悔い改めを体験した者は、一個人の生活にとどまらず、教会共同体の変革をもたらす者として、互いが罪の告白を担い合うように変えられ、赦しのための執り成しの重荷をも担い合うことにまで成長していくことでしょう。
 私たちは闇から解放され、イエス・キリストの十字架から注がれる光に照らされ、光の中を歩み、闇の中に生きる人々を光の方へと導くことのできる働き人として呼び出されたことを覚えたいものです。ハレルヤ!