2016.11.6

『 人の愛、神の愛 』 (ホセア6:1〜6)
 主なる神は“わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。(4節)”と嘆いておられます。神が求めている道とは全く関係のない違った道を歩もうとするイスラエルの民に向かって、心から嘆いておられる神の御声です。
 続けてホセアは、神が告発する人の愛について、“お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ!”と宣言します。ここで“愛”と訳されている言葉は“ヘッセード”、契約関係に基づく誠実な愛のことです。聖書における「ヘッセード」とは、「夫と妻の結婚の誓約」を交わすように、ご自身の民に向けられた神の愛を表す言葉であると同時に、神に対するイスラエル民からの誠実なる愛を表す言葉でもあります。すなわち、神はホセアを通じてイスラエルには本当の「ヘッセードの愛」がないことを嘆いておられる。神が私たち神の子どもたちと交わされた愛は永遠に変わることのない愛の約束だったのに、イスラエルの愛は朝の霧のような、朝の太陽の光にすぐに消え失せてしまう露のような、たった一瞬の愛に過ぎないと告発しているのです。
“わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(6節)”
 夫なる神が喜ばれるのは「ヘッセードの誠実な愛であって、神ご自身を、全人格をもって知ることです。何かの行いや形だけの関係ではない。」という言葉です。
 聖書で教える神は、愛する子どもたちを裁くことを好まれる方ではありません。むしろ子どもたちの帰りを待っておられるお父さんであり、愛する妻のために命まで捨てる愛で贖われる夫なる神です。神様の御心は裁きと滅びでなく、癒しと祝福です。神は子どもたちが自らの罪を悟り、十字架の赦しのもとに帰ってくることを待っておられるお方、この世の欲望と罪の誘惑に陥り、深い絶望の暗闇の中を彷徨っていた人が主のみもとに立ち帰ることを切に待っておられるお方なのです。ここに私たちが失望し落胆しなくてもいい理由があるのです。たとえ、あなたが死の陰の谷を歩むことがあっても、希望の歌を歌える理由がここにあるのです。
 イエス・キリストの十字架のもとに立ち帰り、悔い改め、心を注いで主を知ろうとする人、心を注いで神のヘッセードの愛を黙想し、生きた礼拝を献げようとする人を主は喜ばれ、その人を通して神は深い暗闇に包まれている世界に光を照らしていかれることでしょう。日々の実生活を通して神のヘッセードの愛を翻訳して生きる小泉町教会のお一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ!