2016.11.13

『 幼子の口によって 』詩編8:1〜10)
“主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。(8:2)
 この聖句を繰り返して黙想し口ずさむのであれば、私たちは日常生活における慌ただしく事細かなことから宇宙に満ちた創造者の御手による神秘の前に立たされることになります。まさに詩篇8篇は最初から最後まで大いなる神、その恵みを褒めたたえていることが分かります。人が素晴らしい何かを見て“おー!”と感嘆できるということほど、造された者に求められる姿です。その反面、何を見ても驚くことも、感動することも知らない人は造られた者として持つべき魂の命の泉を失ってしまった人であるでしょう。
 詩人は、世界中に満ち溢れる神の息吹を感じています。それはあまりにも美しく、圧倒的です。彼は幼子と乳飲み子の口によって主の威厳をたたえると述べています。すなわち私たちの存在が神への賛美そのものであるという意味でもあるのです。そこで詩人はいよいよ、この詩のクライマックスに該当する言葉をもって賛美します。
“そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(8:5)” 
 創造者の前に立っている自分自身を見つめると、神の愛を受けるほどの資格などいっさいもっていないような惨めな存在であることを認めざるを得ません。神の似姿で造られ、神の代理人という使命をいただきながらも、罪による欲望の奴隷となってしまい、もともと神より授かった尊い命の働き人としての価値を失っている私たちであるのです。なのに、創造者であり、父なる神は罪と汚れ、弱さ、様々な問題課題の中で苦しむ私たちへの愛をあきらめておられない。私たち罪人たちを憐れまれ、ご自身の命を捨ててまで救い出してくださるのです。ここに私たちの存在の根拠があるのです。
 本日は子ども祝福式、父なる神は私たちに「幼子と乳飲み子のような」心と信仰をもって神の前に立つことを望んでおられます。幼子、乳飲み子はただひたすら目に見える神の業に素直に反応します。大人のような偏見も、頑なさもなく、自分を飾ることもしません。幼子は親の胸に抱かれて平和を得、親の愛の眼差しに満足します。
 小泉町教会の小さな者一人一人が、神の恵みとその愛に素直に反応し、日々口をもって大いなる神の御業をほめたたえ、幼子のように神の国を信じ、神の国の恵みを味わい生きることができますように・・・。ハレルヤ!