2016.12.11

『イエスは何を見るか』 (マルコによる福音書2:1−12) 
 全世界に私たちの援助を必要としている人がいる。援助は、一方通行ではなく、互いに神の恵みに預かる道である。
 中風の男が登場する。「すると、人々が、4人の人に担がれている一人の中風の人を、彼(イエス)のところに(向かって)連れてきた(運んできた)。」と訳すことができる。より深く考えると、4人の人々の行動を、後押しする人々がいた。病人の癒しを願う集団があった。彼らには、確信があった。イエスには癒す力がある!この中風の男を助けるのは私たちの責任だ!イエスは私たちの願いを聞いてくださるのだ!この男は俺たちの大切な仲間!そして、私にできる小さなことをするのは私の使命だ!と。この確信こそが、彼らを突拍子もない行動へと駆り立てた。彼らは、友人の癒しのためなら一切の遠慮、妥協をする必要がないと確信していた。彼らには、どのような壁も妨げとはならなかった。 
 ユダヤの家は、通常一つの部屋しかなく、屋根は、材木の梁と木の枝を編んだものと、粘土の覆いからなっていた。簡単な構造で、修復が可能だったと言われる。とはいえ、実に大胆な行動である。
 聖書は語る。「彼らの信仰を見て」と。イエスは、彼らの信仰を見たと言う。彼らの信仰と言われた中身は一体何なのであろうか? 今日私が強調したいのは、この彼らの仲間を思う愛の心であり、互いの信頼関係である。彼らは、一人の中風のものを助けたいと思った。この一人の隣人を思う心、互いの信頼の心が、彼らを結び合わせ、行動へと駆り立てているのである。
 イエスは、彼らが互いに持っている愛の心、信頼の絆、隣人の痛みを自分のことのように思う心、そしてそれに連帯する思いをしっかりと見た。教会はイエスを信じる。そして、兄弟姉妹たちを信頼し、互いに仕え合う。教会の信仰が問われている。
 イエスは言う。「子よ、あなたの罪は許されている」と。罪とは、神から離れていること、そして、苦難は神からの離反に根ざしているのだ、と言う旧約聖書全巻のメッセージがここで展開されている。中風の者が特別に罪深いのではない。皆、同じである。ここでは、全ての人の困窮の根本が明らかにされたのである。そして、そのためにイエスは十字架につかれ、復活されるのだ。
 屋根に穴を開けられてもそれを許し、制止しなかった家の主人もまた、彼らの一員だ。チャンスを逃さない信仰、今、この時、後でと言わない信仰。先延ばししない信仰、諦めない信仰に主は答えられる。
                田口昭典 牧師