2016.12.11

 〜 命のパンとして来られたイエス様 〜
 昨日(10日)は、今年最後の「小さな泉の村」が開かれました。一か月一回、ホームレス生活から自立しようとする方々と共に食事を作り交わりの時間を持つという、文字どおりの小さな活動かもしれませんが、わが群れにとっては大きなチャレンジであったことは確かです。最初に提案し、リードしている瀬戸姉をはじめ、神の家族の中には不安を抱いた方々もいたことでしょう。しかし、4月に始まってから昨日に至るまでの「小さな泉の村」の働きを振り返ると、小泉町教会にとっても、私自身にとっても大きな恵みとなりました。すべては神が始められた時、御心に適った恵みの業であったことを告白せざるを得ません。ハレルヤ!これから備えられる神の導きが楽しみです。
 さて、今はクリスマスの季節。私は毎年この季節が近づくと、「命のパンとして来られたイエス様」を思い起こします。イエス様は御自ら、「私は命のパンです」と自己紹介をされました。「パン」こそ、人が生きるためになくてはならないもの、命そのものです。イエス様とパンは深いつながりをもっています。イエス様が生まれた町の「ベツレヘム」は、「パン屋」という意味です。また、イエス様は、公生涯の中で「五つのパンと二匹の魚」の物語をはじめ、神の国を語られた時は多くの場合が食事の場面でした。特に、“主は引き渡される夜、パンを取り、これはあなたがたのための私の体である”と言われた「主の晩餐」こそ、“わたしは命のパンである”と言われた言葉の最も確かな証しであります。
 この季節、小泉町教会の小さな群れの一人一人が、命のパンとして来られたイエス様をいただき、真の命のパンを知らない周りの貧しい人々に分かち合える命のパンのパーティーが開かれますように・・・。シャローム