2016.12.18

『クリスマス讃歌』 (フィリピの信徒への手紙2:5〜11)
 今年の漢字も「金」に決まりましたね。これで3度目です。選ばれた理由として、リオデジャネイロオリンピックで日本人選手の金メダルとノーベル賞受賞、また東京都の舛添前知事の政治資金問題など政治とカネの問題が次々と浮上したこと、それに金髪のドナルド・トランプ氏のことなどが挙げられたということでした。
 人の「金」に対する執着というか、憧れというか、「金」のイメージは時が流れていても変わらないものです。それほど「金」と人は切り離そうとしても切り離せない主題であります。絶えず「金」を目指して上を向いて走り続けている人生、それが人の人生ではないでしょうか。オリンピックに出る選手は金メダルを、また何をしても一番にならないと意味がない、いくらお金を稼いでも満足することはできない。このようなことは、今になって出来あがったことではありません。人類が始まって以来、絶えず求め続けてきたことなのです。
 本日のフィリピの信徒への手紙2:6〜11は、「キリスト讃歌」と呼ばれている箇所です。これは、初代教会の礼拝において歌われていた讃美歌として知られていました。しかし、その内容を見ると、絶えず上を向いていて、金を追い求めるような世界とは全く切り離されていることが分かります。すなわち、キリスト教の神は、神の身分でありながら、神としての栄光、尊厳、力、すべてを捨てて、罪ある人の姿と同じ姿、しかも乳飲み子としてお生まれになられた。上を向くのでなく、下を向くという。これがクリスマス、神の御子イエス・キリストの誕生の出来事だったのです。
 御言葉に耳を傾けましょう。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(2:6〜8)」 「なぜ神は人となられたのでしょうか」。その答えはただ一つ、愛ゆえです。神があなたと私を愛し、私たちを罪と滅びから救おうとされた愛の熱情のゆえ。愛のほか、クリスマスの出来事を説明する言葉はありません。神が人となられたことほど、驚くべきことはありません。ところが、私たちはそのことを耳にタコができるほど聞いてきたがために、神のへりくだりを、当たり前のことだと思いがちです。しかし、それは決して当たり前のことではありません。むしろ、それは「愛による奇跡」、二度とない恵みによる奇跡なのです。
 古くから教会は、イエス・キリストの誕生の出来事とその生涯、そして、十字架の死と復活に至るまでのすべてを神によるへりくだりのお姿として捉え、語り続け、歌い続け、信仰の記憶として刻み続けてきました。今日、私たちも生きた信仰告白としてのクリスマス讃歌を、声と愛の心を合わせて歌いたいと願うのです。
 わたしたちが歌うべきクリスマス讃歌こそ、栄光と力、権威と裁きに満ちたキリストではなく、飼い葉桶と十字架に見られる僕の歌、へりくだられたイエス様の謙遜をほめたたえる歌、そして、私たちも僕として、自分を無にしてイエス様に従うことを歌うべきではないでしょうか。ハレルヤ!