2017.1.29

『 不完全の恵み 』 (IIコリント12:9)
 聖書に登場する人物に完全なものは一人もいない。皆、欠陥がある。誰一人完璧なものがいない。皆、弱さを身に負っている。最初の人アダムも、その妻エバもスタートから罪を犯した。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、その妻サラもまた、罪深いものであった。さらに、最初の王サウル、正式なイスラエル王国の初代の王ダビデ、栄華を極めたソロモンもまた罪深い人間であった。執拗にダビデの命を狙うサウル王、自分の部下の妻を奪い取って姦淫の罪を犯したダビデ王、異教の神を拝み、王国を分裂させてしまったソロモン王など、名君もまた立派な罪人であった。主イエス様の弟子たちもまたイエスを裏切った者たちであった。聖書に登場する人物は、皆、罪人である。言い換えれば完全な人間はどこにもいないのである。弱さに満ちた罪人、これが私たちである。
神は人間の創造に失敗したのか?決してそうではない。深い神のお考えがあるのだ。人間の創造を終えて、神は、「極めてよかった」と言っているので、失敗したということはありえないのです。詩篇8篇6節では、「神にわずかに劣るものとして人間を造り」と言われている。また、詩篇103篇では、「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」、という。
神は、人間を地の塵で作った。無きに等しいものが人間の本質である。そしてはかないものである。それでも、神にわずかに劣るものとして作られたという。人間は最初から欠けがある。完全でない。それが神の御心だ。神によってその欠けを補って、埋めていただかなければならい。言い換えれば、私たちの欠けは神によって埋められるもの、神の恵みが宿る場所となる。私たち人間は、その初めから神と共に生きるものとして造られている。それは、神から離れては私たちは生きられないのだということでもある。
その欠けは、神以外には埋めることができない。そして、私たちは、常にこの欠け、すなわち不完全さを補ってくれる方を必要としている。慰めたり、励ましたり、一緒に泣いてくれる仲間が必要なのだ。批判してくれる仲間も。私たちはひとりでは生きられない。個人においても、教会という集団においても。弱いこと、足りないこと、欠けがあることは恵みである。神がその穴を埋めてくださるからである。今日から協力伝道週間。互いに欠けを補い合う群れがバプテストだ。全国324の教会・伝道所を覚えて祈ろう。
                  田口昭典牧師