2017.2.12

『 義の栄冠を待ち望みつつ 』 (テモテへの手紙二4:1〜8)
“御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。(4:1)” パウロはローマの牢につながれていて、いつ処刑されるか分からない状況にありました。しかし、彼の目は、神とイエス・キリストにいつも目を向けられていて、この世における権力に小さくなったり恐れたりすることはありませんでした。
 現代人は、通常、他の人の目を意識して生きています。人々に認められたり、賞賛を受けたりすると喜び、非難を受けたり、無視されたりすると悲しみます。しかし、パウロは、他の人々の期待や目に自分を合わせようとしません。彼は、常に父なる神と裁きの主であるイエス・キリストの御前で、神の国の成就されるのを思いつつ、生きていきます。そこでパウロは、イエス・キリスト神の国を心に抱きつつ生きる人に求められることを伝えます。
“御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。(4:2)”
 人々は、甘い言葉や自分の欲望に逆らわない言葉が好きです。そのため、真理の言葉が好ましくないと、不快だと思ってしまうのです。このような反応は、どの時代も同じです。神の言葉は、一言で負担をかける言葉であると言えましょう。神の言葉は、私たちの平穏な日常生活に波紋を作ります。自分の欲望と価値観に逆らうようにと要求するのです。
 使徒パウロは、自分の人生の日々があまり残っていないことをよく知っていました。だからこそ、彼は、終末論的な言葉を用いてチャレンジするのです。 「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。(4:6)」・・・ここで「いけにえとして献げられる」とは、いけにえに、ぶどう酒を注いで献げる献げ物のことで、決して揺らぐことのない献身を意味します。パウロは、自分自身の最後の血の一滴まで主の祭壇の前に完全に献げられることを願い、心を定めているのです。その後、パウロは彼自身の人生を、次の一言でまとめます。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(4:7)と。・・・そうです。キリスト者の人生は戦いです。絶えず、自己中心の欲との戦いの過程であり、神の御心に反する悪しき力と、不義な世界との戦いに立たされながら生きていくのです。そして、パウロが見上げている希望は「義の栄冠」を受けること。私たちに約束され受けるべき「義の栄冠」は、この世のどんな宝や権力、名誉で買うことができないもの、その栄冠は、イエス・キリストの十字架の後に得られる復活の喜びであり、神の国においていただく永遠の命、私たちキリスト者に約束されている勝利の象徴です。         
あなたの目が見ているもの、あなたの望みは何ですか。そのためにあなたが証しすべきものは何でしょうか。