2017.2.26

『 礼拝者から証人へ 』 (フィリピの信徒への手紙2:12〜18)
 本日は証し礼拝。今朝は、一人の礼拝者であり、証人であった人パウロについて、分かち合いたいと願います。
 イエス・キリストと初代教会のクリスチャンたちを迫害していた人が、復活したイエス様との出会いによって、完全な生き方の変革を経験したパウロでした。その日以来、パウロは生きた礼拝者として、また異邦人の伝道者として生涯を貫き通します。特に、本日の御言葉を通して、礼拝者であり、証人としてのパウロの言葉を通して、礼拝者から証人へと成長していく教会共同体に求められる姿勢を知ることができます。
 まず、イエス・キリストに倣う従順な礼拝者として歩むことを求めます。パウロが語っている「従順」とは、フィリピ2:5〜11に示されているイエス・キリストに倣う従順のことを指します。その従順こそ、キリスト者の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられる神を前にしての、恐れおののきつつ努めるべき生き方なのです。ここでの「恐れおののきつつ」とは、旧約時代から神の前に立つ者がもつ姿勢(モーセ、イザヤなど)であって、それは、人に見られても見られなくても、神を目の前に礼拝する人が抱くべき変わらない礼拝者としての従順であったのです。
 次に、よこしまな曲がった時代の輝く星のような礼拝者として生きることを求めます。
私たちが生きている時代こそ、パウロが語る「よこしまな曲がった時代」であるでしょう。そのような時代を生きるキリスト者に求められることこそ、「何事も、不平や理屈を言わずに行なう」(14節)でした。パウロはフィリピ教会の信徒の間に「不平や理屈を言いながら奉仕する」人々がいて、そのことが共同体の悩みの種となっていたことを指摘します。出エジプトの時、イスラエル共同体を常に苦しめていたのが、「不平や不満、つぶやき」であって、荒野の40年間の試練をもたらした原因でもありました。小泉町教会の群れにおいても、とりわけ奉仕者が不平や理屈を言わず、とがめられるところのない清い者となり、非のうちどころのない神の子としてのアイデンティティーをもつ礼拝者で満ち溢れるようにすることでしょう。そうすることで、よこしまな曲がった時代の輝く星としての使命を果たすことができるのです。
最後に、生きた礼拝共同体のためのいけにえとなっても喜ぶ礼拝者を求めます。
 フィリピ教会を真心から愛し喜んでいたパウロは、フィリピ教会の信徒たちのために、自分自身が「いけにえとして献げられても喜ぶ」と宣言します。これは、パウロ自身の殉教を連想させます。パウロは、彼の手紙の中で度々このような表現を用いています。すなわち、自分自身を生きた礼拝共同体のためのいけにえとして命を献げることがあっても、それが悲しみや挫折ではなく、むしろ喜びだと、そのためにフィリピ教会のみんなも共に喜んでほしいと勧めているパウロでした。
 自分自身をいけにえとすることを喜ぶ生きた礼拝者が、一人、二人と増えていくことで、教会共同体における宣教の働きも力強く広がっていきます。一人の生きた礼拝者が世界を変える証人になる恵みを待ち望みつつ。