2017.3.5

『 もう泣かなくともよい 』 (ルカによる福音書7:11〜17)
 受難節2週目を過ごす今週の土曜日は、3月11日、東日本大震災が起きて6年目となる日です。未だ深い痛みと傷跡を背負いつつ、多くの被災者が涙を流しています。直接、大震災を経験してない人々は“もう過ぎてしまったことだから忘れなさい”と言うでしょう。しかし、被災者や愛する家族を先立たれた方々の悲しみと涙は現在進行形です。そんな中、イエス様の御心を黙想するうちに示された言葉が本日の物語です。 
 その日、ナインの町の門のところには二つの多くの群れが行き合いました。一方では「イエス様と弟子たち、大勢の群衆」が、他方では「一人息子を亡くした寡婦の母親と町の大勢の人が棺を担いで付き添っていたところ」であって、この二つの大きな人の群れがナインの町の門の広場のところでぶつかっていたというのです。
 「ナイン」の意味は“可愛い、楽しい”です。しかし、その意味とは違って、聖書本文のナインの町は寡婦の一人息子が死んで担ぎ出されたところで、人々は悲しみ、心を痛め、暗い雰囲気が漂っていました。そこへイエス様が来られたのです。そして悲しみに包まれていたナインの町を、もともとの「喜びの町」に変えられる奇跡を成し遂げられます。 
 13節で、“主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた”とあります。この「憐れに思い」という言葉は、もともと「腸がちぎれる」という意味で、つまりイエス様がこの母親をご覧になり、イエス様ご自身の腸がちぎれるほどの激しい愛と憐れみ、同情をもって彼女に関わられたというのです。
 聖書はこの母親が日ごろ大変立派な信仰をもっていたとか、素晴らしい人柄であったとか、人のために良いことをしたとか、そういうことは一言も書いていません。ただ彼女は自分自身の命のように愛していた一人の息子を失って、ただ悲しみながら涙しているだけのごく普通の人でありました。その寡婦の母親をイエス様が憐れに思い、彼女に近づき、「もう泣かなくともよい」と声をかけておられるのです。
 旧約の律法には人の死体に触れる者は汚れると定められています。しかしイエス様は腸が揺れ動かされ、ちぎれるような憐れみと愛のゆえに、律法の定めを超えて、死んでいた一人息子を、死から命へ引き戻され、その母親に返してくださいます。泣く以外にないこの寡婦でしたが、イエス様との出会いによって、死んだ息子と共に死から命に、涙から喜びに、引き戻されたのであります。そしてイエス様は今日私たちのうちに十字架の愛と命をもって訪ねてくださいます。
 そうです。礼拝に集う神の家族お一人お一人こそ、イエス様の憐れみを受け、死から命へ移されて、罪と死の奴隷から、永遠の神の子どもと変えられた群れで、周りの一人息子を亡くして悲しい涙を流している母親のような人々に、「もう泣かなくともよい」というイエス様の慰めの御声を届けることができますように・・・。ハレルヤ!