2017.4.2

『 主よ、どこへ行かれるのですか 』ヨハネによる福音書14:1〜7)
 イエス・キリストの恵みと平和が2017年度の最初の主日礼拝を献げる私たちの上に豊かに注がれますように。
 本日の聖書の御言葉の背景は、イエス様が十字架を前にして弟子たちと過ごされた最後の晩餐の席で語られた告別説教となります。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(14:1)…十字架を前にしておられるイエス様は、最後の最後まで、ご自身のことより、弟子たちのことを思いやり、彼らを慰め、心を騒がせないようにと声をかけられます。ここで「心を騒がせる」とは、「自ら心をかき混ぜる、波乱を引き起こす」という意味です。すなわち「心を騒がせる」とは不信仰から来る人の反応です。これからどのようなことが起こるかが分からないために、自ら心を騒がせるわけです。あなたはいかがでしょうか。イエス様を信じていながらも、自ら心を騒がせてはいませんか。
 イエス様は私たちに心を騒がせるなと言われながら、ご自身は迷うことなく示された十字架の道をまっすぐと歩まれることを心に定めておられます。これから起こるはずの十字架の道の苦しみを知っておられながらも、その苦しみから背を向けることはなさいませんでした。なぜなら、イエス様には父なる神への信頼があったからです。そうです。信仰とは心騒がせたり、右往左往したりすることなく、すべてを神にゆだねることにあります。神の御心に自分自身の心と将来への計画をしっかりと結び合わせ、心を騒がせなく、揺れ動かさない、堂々と信仰の一歩を踏み出すことです。
 続けてイエス様は、「あなたがたのために、父の家に場所を用意しに行く。そして用意ができたら、戻ってきてあなたがたを迎える」という約束をしてくださいます。そして、イエス様はご自身が行かれる道を弟子たちが知っていると語られます。もちろん、ここでイエス様が言われる父の家とは、「天の永遠の神の国」のことでした。しかし、当時の弟子たちはイエス様の言われる言葉の意味が分かりませんでした。イエス様は3年間、何度も神の国について教えてはいましたが、弟子たちの頭には、完全な理解がなされたわけではなかったのです。むしろ、イエス様が彼らから離れて行かれるという話が、弟子たちを不安にさせていたわけです。
 そこで、疑いの人トマスがイエス様に問いかけます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14:5)と。トマスは自分の信仰のなさ、自分が抱いていた疑いを隠しません。抱いている疑問を、素直にイエス様に尋ねるのです。その時、語られるあの有名なイエス様の答え。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (14:6)エス様,ご自身こそが、すべての人への唯一の救いの道であることを宣言される。私たちの道であり、真理、命であるイエス・キリストに出会える恵みの時こそ、十字架と復活を覚える今なのです。ハレルヤ!