2017.4.9

『 イエスの十字架に従う 』 (ルカによる福音書23:23〜28)
 ポンティオ・ピラトにより十字架刑が確定されたイエス様は、すぐにローマ兵士に引き渡されることになります。その後、イエス様は鞭打たれ、唾をかけられ、殴られ、もうご自身の体を支えることさえできないような状態になってしまいます。ですから、エルサレムの外に設けられていた十字架の処刑場にまで、十字架を背負って進むということは大変なことでした。
 イエス様は、何度も倒れ、何とか立ち上がってはまた倒れてしまいます。イエス様の弱さに気づくローマ兵士たちは偶然その場を通りかかっていたキレネ人のシモンという田舎者を引っ張ってきて、彼にイエス様の十字架を背負わせることになります。まさにシモンは、自分の意志とは関係なくローマ兵に強制され、突然、無理やり十字架を背負って、ゴルゴタまで歩くことになったのです。
 当時の人々にとって、十字架は最も残酷な処刑道具でありましたし、神に呪われた者の象徴だったために、キレネ人シモンにとっては、大変不愉快で呪われるような思いになっていたことでしょう。しかし、後に彼が担っていたイエス・キリストの十字架が、彼自身をはじめ全人類の罪を取り除き、贖われる神の独り子の十字架であったことを知ってからは、恵みの象徴、愛と救いのしるしに変えられたのでありますし、世界中からたった一人、自分だけがイエス様の十字架を担ったことへの感動と、プライドに満ちて生きるようになったことでしょう。突然、背負うつもりのなかった十字架を、無理矢理背負わされたけれども、彼が、その時味わったイエス様の担がれた十字架の重みを知ったからこそ、イエス様の弟子となることができたのです。その重みとは、自分の罪の重みであり、また、神の愛の重みであります。そのことを、シモンはきっとその人生において、証ししながら生きたのだろうと思います。
 本日の御言葉の中には、シモンの他に、「イエスを十字架につけろ」と大声で叫ぶ多くの群衆と、その群衆たちの声を受け入れるピラトが、そして、イエス様のおかげで、自由の身となった強盗バラバが、また、ゴルゴタへの十字架の道において、イエス様の後をついてきた「大きな群れの民衆と嘆き悲しむ婦人たち」が、描かれています。それぞれ違う理由と違う目的をもって、イエス様の十字架に従ってくる人々の姿の内に、あなたと私の姿を見出すことができるでしょう。
 イエス様が進まれた十字架の道は、罪人たちを生かす道であり、愛を貫かれた道でした。イエス様は、肉体における苦しみの極めを味わう道を進んでいかれます。その理由こそ、私たちを愛し、私たちに先立って味わうために歩まれたのです。ですから、イエス様に従う者としての神の家族お一人お一人も、イエス様の十字架に従いつつ、各自に与えられた十字架を背負い、各自に示されている信仰の道をひたすら進んでいかなければならないのです。