2017.4.16

『 疑いを乗り越えて 』ヨハネによる福音書20:24〜29)
 イースターおめでとうございます!!!私たち人類の罪のために十字架の上で身代わりとして死んでくださり、三日目の日曜日の朝に、墓の中から復活なさったイエス・キリストを心から賛美しましょう。
 本日の御言葉の主人公である「トマス」は、聖書の4つの福音書に全部登場します。しかし、今私たちが見ているヨハネ福音書だけ、彼のもっているある独特なキャラクターが浮き彫りになって紹介されています。その姿が最もよく表れているのが本日の聖書箇所です。
 十字架の上で死なれたイエス様はお墓に葬られました。そしてイエス様は約束された通り死んだ後3日目、死から復活されることになります。その復活されたイエス様が弟子たちの間に現れましたが、ちょうどその時、トマスは、その場にいませんでした。その後、他の弟子たちから「イエス様が復活されて、私たちの前に現れてくださったんだ!」と知らせた時、彼は信じられませんでした。
 人々は、しばしばトマスを呼ぶ時「疑い深い」という言葉をつけて呼びます。この言葉は、決して肯定的な言葉ではありません。「疑い深い」という言葉は、不信仰と同じ言葉に受け取ることができます。それでは、皆さん、「疑い」とは本当に信仰生活において「あってはならない不信仰なもの」でしょうか。・・・いいえ、決してそうではありません。むしろ疑うことのない確信、盲目的な信仰ほど危険なものはないでしょう。しかし、信じるために「疑う人」は、盲目的に信仰する人より、もっと人格的に、もっと深い神との関係へと導かれることになります。哲学者のデカルトは、「本当のことを知りたければ、すべてのことを疑わなければならない」と言ったことを覚えています。ですから、“自分の目で見なければ、自分の手で触って見なければ決して信じない!”というトマスの態度が、非難される理由はないのです。トマスのこの信仰における悩み、そのジレンマは信仰生活の中で、なかなか深く入ることのできない方々の悩みであり、ジレンマであると言えると思います。
 しかし、ここで興味深いことは、トマスがこれほど深い疑いの時を過ごしているのに、復活したイエス様はすぐ彼のところに現れることはなさらない。復活されたイエス様は、8日が過ぎた後、トマスをはじめ他の弟子たちが一緒に家の中にいた時に、彼らの真ん中にご自身を現わされることになります。それからトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」言われながら、トマスの手首をとってご自分の傷跡を触れさせるイエス様。イエス様は決して疑うトマスを裁いたり、非難したりしておられない。むしろ、イエス様は彼を本当の信仰者へと導くために、ご自分の傷跡を快く見せてくださるのです。その後続くトマスの告白が心に響きます。 「わたしの主、わたしの神よ!」