2017.5.14

『 孤独の時に見る神の御顔 』 (創世記32:21〜32)
 人の人生の中、不安と恐れを感じさせられる時こそ、独り残された時ではないでしょうか。“誰も訪ねてくれない病床における孤独、誰にも言えない悩みを抱えて過ごす人の孤独、誰も認めてくれない中で働く人の感じる孤独”など、その時人々は深い暗闇に包まれてしまうことでしょう。あなたが深い孤独を味わった時はいつでしたか。
 聖書は、独り残された時に神の道が開かれ、神からくる力と恵みをいただき、まったく新しい出発を始めた神の人たちのことを紹介してくれます。まさに、今日のヤコブは孤独のただ中で、生きた神との素晴らしい交わりに入ることが許されました。
 ヤコブは人々の間にいた時、絶えず欲望と争いに捉われ、ありとあらゆる手段と偽りを辞さなかった人でした。彼にとって目に見えるものより大切なものはありませんでした。そのため彼は詐欺師のように、常に人を騙し、心の内では欲望の企みを続けていたのです。   
 本日の御言葉には、兄エサウに罪を犯してしまい逃亡者となっていたヤコブの帰りの内容が描かれています。兄エサウの怒りをなだめるために最善を尽くすヤコブ、しかしエサウが400人もの人々を引き連れて来ているという知らせを聞いたヤコブは、大変な恐れに陥ってしまいます。家族全員に先に川を渡らせた後、独り残ったヤコブは、なかなか決断を下すことができない。これ以上逃れることはできない絶体絶命の瞬間にも、ヤコブは依然として自分の欲を捨てることはできずにいたのです。恐れと不安に覆われた孤独の時がしばらく続きます。
 丁度その時、神がヤコブを訪ねて来られたのです。神は彼の欲と執着心を砕くために格闘を仕掛けます。神はその時、ヤコブをまったく新しい神の人に変えようとされます。神はヤコブの腿の関節を打ち、彼の強い欲と自我を砕かれることになります。ヤコブはもともと敗北を知らない人、人生の崖っぷちに立たされても、自分の弱さと限界を認めることができなかった人でした。しかし彼は神との格闘を通して、自分の罪深さと弱さに気づかされ、神の祝福の約束を切に求めることになります。ヤコブは夜の孤独のうちの長い格闘を通して神の御顔(ペヌエル)を見ることができ、全く新しい人生を始めることができました。神はヤコブが独りにいた時、彼を訪ねられ交わってくださる。そしてイスラエルという新しい名前を与えてくださったのです。
 本日は母の日礼拝、小泉町教会の母なる皆様の人生においても独り残されたような孤独の時もたくさんあったことでしょう。・・・あなたの人生を振り返る中で、神があなたを訪ねられた時はいつでしたか。恐らくあなたが独り寂しい時、神の助けと導きがなければ生きられなかった切なる時に、神が御顔を示され、御手を差し伸べられたのではないでしょうか。ぜひ、神の家族の日々の生活において、神の前に独り寂しい時、この世の欲望や目に見えるものではなく、神の御顔を求め、神の御手の業に目を向けることができますように・・・。