2017.7.16

『 いかに貴いことか 』 (詩編36:6〜11)
 ダビデは、自分のことを「主の僕」(1節)であると告白します。イスラエルの王であったダビデでしたが、彼にとって真の幸いこそ、主の庭を慕って、主の家に住み、朝を迎えること、まことの王なる神を礼拝し、王なる神への愛を現わすことを彼の人生の目的としていました。ですからダビデは自分のことを「主の僕」と公に歌うことができたのです。
 詩編36編は闇と光が入り混じっている人間の人生を表しているような詩です。とりわけ詩人は人生の中で「最も貴いことは何であろうか」ということについて教えてくれます。「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」(36:8〜9) これは人生の中の究極的な価値あるものについての問いかけであって、詩人はその問に答えているのです。
 聖書が私たちに“あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)”と教えているように、人々は、自分が大切にしている宝物をもっていて、それを誇りに思い、自慢するのが普通です。それでは、詩編36編の詩人が私たちに自慢し紹介している宝物は何でしょうか。それこそ、“神の慈しみ”でした。ここでの「慈しみ」と訳されている言葉は、“ヘッセード”、“神の契約の愛”です。詩人は何か目に見えるある宝石や、何かのものではなく、“神が人と約束してくださった愛こそが最も貴い宝物である”と歌っているのです。
 神の家族の皆さん、神の愛を表すこの「ヘッセード」は、ただ単純に説明できる「愛」という概念や理念ではありません。それは出来事を通して示される神の愛なのです。神が愛する人のために成し遂げられた愛の業、これは人にはできないただ神のみにできる愛の業のことです。人の可能性が絶望に変わった時に、神の愛によって示される希望と可能性の現れが“ヘッセード”なのです。
 聖書が教える神の慈しみの業として、出エジプトの神の愛する民への圧倒的な神の救い、また荒野の40年間の導きと守り、乳と蜜の流れる地カナン授与など、神の民イスラエルの全歴史を通して示された愛こそ神の慈しみ(ヘッセード)だったのです。だから詩人はこのような神の業を実際体験した人として、“神の慈しみ(ヘッセードの愛)はいかに貴いことか!”と嘆声を挙げながら、この歌を聞く人々に、“神の愛の翼の陰に身を寄せる時に得られる幸い”を勧めているのです。
 教会開拓57年、教会組織17年を迎えるわが教会の歩みの上に注がれた神の慈しみはいかに貴いことでしょうか。また、あなたの人生の歩みにおいて示された神の愛の業を振り返って見てください。あなたへの神の慈しみはいかに貴いことでしょうか。ぜひ信仰と讃美の声を合わせ、神のヘッセードの愛をほめたたえましょう。ハレルヤ!