2017.7.19

 〜指導者の謙遜を考える〜 先月からリビングライフのテキストは民数記です。エジプトを脱出したイスラエルの民らが荒野の40年間の旅を終え、いよいよ神の約束された地カナンを眺めているところまで来ています。そのような中、私の心に刻まれる一人の人がモーセでした。イスラエル共同体のリーダーとして神に選ばれ、生涯を神と民の間で、命をかけ、最善を尽くしてきたモーセの姿から指導者のもつべき姿勢を教えられます。その中でも何より素晴らしく迫ってくるモーセの姿こそ、初心を忘れず、神と人との前で、執り成す人として、神と人に仕える謙遜さでした。神と顔と顔を合わせ交われた唯一の人、特別な権威とリーダーシップを授かりながらも、一生涯選ばれた者としての使命感と信仰の良い緊張感を失わないモーセでした。その姿が大きな感動と響きとなって私に迫ってくるような近頃でした。
 最近、支持率の低下で尻に火がついてしまった一人安倍首相のことを思います。恐らくいつまでも高い支持率を保てると錯覚していたことでしょう。だから国民からの反対の声を素直に受け止めることはできなかったかもしれません。先日、反対する国民たちに向け、安倍首相の口から出た言葉、「こんな人たちに負けない」・・・謙遜や反省を知らず、上の目線で国民を見下ろしているその姿勢が、支持率急落という結果に現れている現状です。
 真の指導者であるイエス・キリスト“神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6〜8)”という、徹底した真の謙遜なリーダーの姿勢を示されました。この世の指導者たちが、いやこれから指導者になろうとする人々が、モーセのように、イエス・キリストのように謙遜さと仕える姿勢を貫くことができるように・・・。シャローム