2017.7.30

『 神がわからなくなっても 』 (創世記22:1-19)      田口昭典牧師(金沢キリスト教会)
神の祝福の中の日々で
 アブラハムは75歳の時、行く先を知らずに神の導きに従って旅に出た。あなたに子どもが与えられるという神の約束の言葉を受けた。それから25年経って、息子イサクが与えられた。イサクは、アブラハムにとって神の約束の成就であり、彼を見ることによって、神を深く信じることができる存在であった。幸せな日々を送っていたアブラハムに突然試練が襲います。神が理不尽な要求がなされます。「息子イサクを焼き尽くす捧げ物として献げよ」と。
アブラハムは神の意図が全く理解できなかったと思います。どんなに解説しても、説明しても、納得のいく答えはありません。ただ、はっきり言えることはアブラハムは神がわからなくなった。自分の今までの考えや信仰では理解できない謎に直面させられた。

はい、という返事
 神の呼びかけ「アブラハムよ」に対して彼は「はい」と答えます。7節に、イサクが「私のお父さん」と呼びかけると、「ここにいる。私の子よ」と答えます。11節に、天からの御使が「アブラハムアブラハム」との呼びかけに「はい」と答えます。ここでの返事は、みな同じ言葉です。「私はここにいます(ヒネニイー)」です。
 アブラハムはアダムのように逃げ、隠れしません。私は逃げません。恐れません。おゆだねします。御心のままにしてください。アブラハムは自分でわからなくなってしまった神を見ようとするのではなく、神の前に出て、神に見てもらって、神の眼差しの中で生きると決意したのです。

備えてくださる主
 備えるという言葉は、「見る」という意味の言葉です。それは、主が見ていてくださるという意味です。主は、私たちの全てをご覧になり、最善をなしてくださるのです。アブラハムはそのような神の眼差しを信じていました。それは、神の摂理を信じる信仰です。摂理の語源は「プロ+ヴィデオ」で「前もって見る」という意味です。

神がわからなくなっても
 神がわからなくなってもいいのです。でも、その時、信仰を捨ててはいけません。信仰は与えられるものです。神がいつも新しく信仰を与えてくださいます。神に委ねて歩みましょう。