2017.8.13

『平和を訓練する 』 (ローマの信徒への手紙12:17〜21)
 平和のない世界、安息のない生活で日々苦しんでいることでしょう。争いと葛藤、分裂が日常化している世界の中を生きている私たちです。しかし、争いと葛藤、分裂といったことは最近できた言葉ではありません。これらは人類の歴史の長さほど長い歴史をもっています。人間の歴史が始まったのとほぼ同時に分裂と紛争の歴史が始まったのです。そして分裂と戦いは現在進行形である。・・・家庭において、教会において、職場において、国と国との関係において、絶えず分裂と争いが起きていることを、身をもって体験する現実です。
 主イエスが私たちに求められるのが平和を作り出す者になることです。しかしこれはある日突然出来上がるわけではない。そこで使徒パウロは私たちに平和を訓練することを勧めています。
“だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(17〜18)” 聖書は私たちに“悪に悪を返さないように”と教えます。「惡」という字は、お墓を表す「亞」と、「心」が結合して出来た文字で、“他人が死んでしまうことを願う心”という意味です。律法では「歯には歯、目には目、やられたらやり返す」という教えをもって、悪に対抗することを教えてきました。しかし、イエス・キリストの教えこそ十字架の福音であります。神の子どもであるキリスト者はキリストに倣い、自分を迫害する敵さえも赦し、どこにおいても福音の源となってすべての人に対して、善を行うように心がけ訓練する者です。続けて使徒パウロは“すべての人と平和に暮らしなさい。”と勧めます。もちろん、この勧めは簡単に行なえることではありません。私たちの人生の数えきれない人との出会いの中で、どうしても赦すことのできない人がいるのも事実でしょう。ですから、すべての人と平和に暮らすことは人間の力によってできることではないのです。これこそイエス・キリストが歩まれた十字架によって開いてくださった平和とゆるしの道を歩むことを決断することです。主イエスは、十字架にかかりながらも、ご自身を嘲笑う人たちのために「彼らの罪を赦してほしい」と祈られ、すべての罪人と神との和解を実現され平和の主となられたのです。
 続けてパウロは、復讐を神の怒りに任せる訓練、敵が飢えたら食べさせ、渇いていたら飲ませるという積極的な働き人へと招いています。聖書の語る平和、主イエスが十字架の上で成し遂げられた平和と和解の夢をあきらめず、いついかなる時や場合においても、主イエスが平和を与えてくださるという約束を信じ生きることです。
 願わくは、私たちを取り囲む暴力と葛藤、争いの世の真ん中に立ち、訓練した平和を作り出す者としてのお一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ!