2017.8.20

『 見えない事実を描きたくて 』 (エフェソの信徒への手紙3:18-19, ヘブライ人への手紙11:1-3)
 私の信仰生活の中で大きな割合を占めているのが、絵を描くことです。週報のイラスト、こどもメッセージ、教会学校資料、折々に発行する文書など、奉仕の中で描かせていただくこともあれば、個人的に突然描きたくなることもあります。
 本日読んでいただいた聖書箇所のとおり、信仰そして神は直接は目に見えません。しかし、それを絵という目に見えるもので、その大きな大きなものの、ほんのちょっとの切れっ端でも間接的に表せるかどうか。それがとても面白い挑戦であり、そのために御言葉を黙想し、聖霊の助けをいただくことが大きな恵みになっています。実は、私は絵といえばマンガ(劇画ではなく)しか描けません。ですから、本物そっくりとか壮大なものを描こうとは思わず、思い切って単純化し、不自然でもそこから現れるものを求めて描いています。
 御言葉を絵にするとき、聖書のメッセージは、その時その時のものではなく、つながっていることをよく示されます。小泉町教会の礼拝の一場面が、御言葉とピッタリ来ることもあります。描いてはみたが良くなかったというのも結構あって、どこがよくないかを黙想するのが、また恵みです。最初に自分で目指したイメージと全く違う展開になって、自分の絵ではなく、聖霊様の導きなのだろうかと思うこともあります。また、こどもメッセージの絵は、まずストーリーがないと描けませんから、与えられた聖書箇所をどういう切り口で語って行くか、自分がその箇所につまずいたままでは、絶対絵も話もできませんから、黙想も調査も必要になります。
 今の課題は、十字架の主を、心からの感動を持って描きたいということです。でも、今はためらいがあるので全然ダメなのです。自分が主を傷つけ、十字架につけているということを、まだ自分で受け入れていないようなのです。
最後に、教会の礼拝・伝道・活動の中に、つたない絵のための場所を空けてくださっている小泉町教会の神の家族に、心から感謝いたします。
                      証し:S.M 姉