2017.9.17

『わが救いの神のゆえに』 (ハバクク3:16〜19)
 本日は「敬老祝福式」です。小泉町教会にとって敬老祝福式を迎える兄弟姉妹の存在こそ、宝物であり、感謝の条件となっていることを嬉しく思います。
 イスラエル人が愛する知恵の書タルムードには、“世界で一番知恵のある人は学ぶ人であり、世界で一番 幸せな人は感謝を生きる人である。”という言葉があります。すなわち幸せのドアを開ける鍵こそ、“感謝を生きる”ということであるのです。
 本日私たちは、苦難のただ中であっても、揺るがない信仰をもって神だけにすがり、神が隠しておいた宝物を見つけ出した一人、ハバクク信仰告白を通して感謝すべき理由と感謝する生活に恵みを分かち合いたいと思います。
 ハバククは何も残っていない状況に追い込まれていました。“いちじくの木に花が咲かず、ブドウの枝が実をつけず、オリーブの実も見えなく、牛舎から牛がいなくなる”という、絶望そのものが目の前に広がっていたのです。しかし、ハバククの唇からはむしろ賛美の歌声が流れていくことが分かります。目に見えるハバククの周りは絶望でありましたが、彼の目は“目に見えない”神の方に向けられています。これこそ信仰者の姿勢であると言えましょう。
“しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。 わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。(3:18〜19)”
 わたしたちの信仰は目に見えるものに根拠を置くのではありません。わたしたちの目に見えるのが、不可能、失望の連続であっても、そのことのゆえにわたしたちの信仰は揺れません。なぜならば、わたしたちの目に見えるものは被造物であって、わたしたちの信仰はそれらすべてを造られた創造者なる神にあり、今日も世界の背後で働かれ治めておられる神に希望をおいているからです。「聖なる高台を歩む」というのは、すべての試練と苦しみを乗り越えた後の勝利者としての姿です。
 実際に、キリスト者を取り囲む様々な課題は、わたしたちを失望に陥れるほどの力をもっています。 しかし、これらのすべての試練と苦しみにも関わらず、キリスト者は必ず勝利するということを、ハバククは高台に立って、信仰の頂上から私達に教えているのです。
願わくは、目に見えるものに騙されず、目には見えないけれど、確かに存在され働かれる神に感謝の賛美を献げる神の家族でありますように・・・。神は、その人に聖なる高台を歩く恵みをくださるでしょう。ハレルヤ!