2017.12.3

『私たちがつかむべき福音』 (ガラテヤの信徒への手紙1:6〜12)
 前回私たちは、挨拶さえ忘れてしまうほどの勢いで、「父なる神の救いの計画に従い、私たち罪人を救い出すために従順に十字架の上でご自身を献げてくださったキリスト」を声高らかに証しする使徒パウロの姿を分かち合いました。
 パウロにとって唯一の福音は主イエスを信じる信仰による救いでした。これはパウロに限らず、すべての信じる人に約束されている神の賜物です。しかし当時のガラテヤの諸教会では、この確かな福音の真理が多くの攻撃に直面していたのです。中でも激しかったのはユダヤ教の律法主義者による攻撃でした。開拓され間もなかったガラテヤ教会の信徒たちの信仰が、これに激しく揺れてしまったのです。そのことを知らされたパウロは「あきれ果てている」(6節)と言いつつ、「ほかの福音」(7節)について怒りを爆発させながら、ほかの福音を伝える者を呪うほど、福音の使者としての情熱を燃やします。
 主イエスは教会の頭であり、教会はキリストの体です。そして教会はイエス・キリストによる福音への明確な信仰告白の上にしっかりと立てられ成長していきます。救いに至る道としてイエス・キリスト以外の福音は存在しません。これはイエス・キリストご自身が、“わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。”と言われた通りです。福音は唯一イエス・キリストによって成し遂げられたものなのです。もし救いへと導く福音がいくつもあって、救いに至る道がいくつもあるとすれば、パウロの信仰も、私たちの信仰も無駄になり、福音を伝えるという必要もなくなってしまうことになり、教会はもはや教会ではなくなってしまうのです。
 神は私たちを福音の御業を成し遂げるために召され、私たちは召してくださった神の僕です。僕の存在の理由こそ、主人のために生きることです。遣わされた人は遣わしてくださった方のために働くのです。パウロの言葉を借りなくても、私たちキリスト者は神によってこの地に遣わされた僕であることを心に刻んで生きるべきです。なのに、いつの間にか“神でなく人に取り入れてもらおうと、人の気に入ろうとあくせくする(10節)”ようになったキリスト者がいかに多いことでしょうか。キリストによる福音の感動はどこかに吹っ飛んでしまい、福音でない、ほかの福音に捕らわれている私たちではないでしょうか。
 パウロは、人に取り入ろうとしているのか、神に取り入ろうとしているのかと決断しなさいと迫ってきています。聖書が教える私たちの存在の目的こそ、神を喜ばせることであり、神の栄光を現わして生きることです。なぜなら、私たちは赦された罪人、恵みの僕であるからです。
 愛する神の家族の皆さん、あなたがつかんでいる福音を確かめてみましょう。あなたはその福音によって日々命を得、赦された罪人として、恵みの僕としての使命に忠実に生かされているでしょうか。神の召しとそれに対する確信はキリスト者と教会の働きの原動力です。なるほど福音は神が私たちに委ねられた賜物であり、教会の命、教会の基礎なのです。ここから離れてはならないのです。ハレルヤ!