2017.12.10

『罪のかしらから福音の証人へ』キリスト者の「かつて」と「今」〜
(ガラテヤの信徒への手紙1:13〜24)
 主日礼拝に集っているお一人お一人はそれぞれ主イエス・キリストに出会う以前の様々な過去を背負って生きていることでしょう。その中には、救われたことへの感謝と喜びをもって振り返ることのできる過去の記憶もあれば、思い起こすことだけで心が辛くなるような過去の記憶、今もなお縛り続けるような過去をもっている方もいるのではないでしょうか。
 しかし、主イエス・キリストに出会い、その方を救い主と信じバプテスマを受けた人は、誰でも罪赦され、もはや過去に縛られることなく、キリストにあって、新しく造り変えられた存在となったわけです。Ⅱコリント5:17の「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」という約束の御言葉は、真実であり、私たちの信仰は御言葉の約束の上に立てられていくのです。
 使徒パウロこそ、イエス・キリストに出会う前と出会った後の人生が全く新しく創造された者の象徴的な人でした。彼は本日の御言葉の中で、イエス・キリストに出会う前の人生を振り返ります。「かつて」という言葉で表現されているパウロの過去、彼はサウロという名前の徹底的なユダヤ教徒で、神の教会を迫害し、ユダヤ教の律法と伝統に熱心な人でありました。“わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。”(14節)・・・実にパウロの過去は、世における価値観から見て誇ることの多い人でした。最高の先生と言われていたガマリエルの弟子であって、ファリサイ派、家柄も素晴らしかった。しかしパウロはそのような事柄は語ろうとはせず、むしろかつては、キリスト教徒に対する迫害者、教会を滅ぼそうとしていた「罪人のかしら」のような過去を背負っていることを語っているのです。まさに「かつて」のパウロは、キリスト教会にとって受け入れがたい存在であったわけです。しかし神の教会を迫害した、「かつて」の自分自身をありのまま語ることで、主イエス・キリストの福音によって、まったく新たにされた「今」を証しできるのです。                                                  
「ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。」(23〜24節)・・・イエス・キリストと出会い、異邦人の使徒となったパウロの「今」を見ている人々は、「かつて」のパウロを知っていたために驚きつつ彼の人生のただ中で働かれた神をほめたたえています。同じく、神の愛と恵みの選びによって救われた者は、神と無縁だった「かつて」と、神が彼の人生にどのように介入されたのか、またすべてが新しく造り変えられた「今」において働かれた神の大いなる御業をほめたたえるようになるのです。
 アドベントを過ごしている神の家族の皆さん、神があなたの人生のただ中に入って来られたことを喜び、救い主によって新しく変えられる「今」を期待し賛美の声をあげましょう。神はあなたを愛しています!