2017.12.31

『 ひとりひとりに報いられる神 』詩編62:12〜13)
          わが魂よ 忘れたのか (詩:水野源三)
わが魂よ 忘れたのか           わが魂よ 忘れたのか 
わが魂よ 忘れたのか           わが魂よ 忘れたのか
憐れみ深い主イエスに           悲しみに冷えた心が
はじめてお会いしたあの日を        喜びに燃えたあの時を

わが魂よ 忘れたのか           わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか           わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ          他では得られない まことの
わが名呼びたるあの御声を         愛と安らぎのある御もとを
 詩編62編は、ダビデが試練のただ中で歌った讃美です。ダビデは、命の危機に置かれながらも、彼の目を神に向けます。人に助けを求めることをせず、沈黙して、ただ神に向かいます。そして、彼の信仰の頂上とも言える告白が語られます。「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」(3節)・・・この言葉は歴史を通じて、試練にさらされている多くの人々を支えてくれました。
 さて、本日の本文の12〜13節には、「神が語られ、ダビデが聞く」という、神とダビデの親密な交わりが記されています。神は、常に神の民に語りかけられるお方です。神の民は、神の御言葉を聞く耳を備えることが求められるのです。神の語られる御声に耳を傾けていたダビデは、彼の詩編に繰り返し使われている、二つの恵みの言葉を示します。「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と、ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる、と。」(13節)・・・二つの恵みの言葉こそ、「慈しみ」と「報い」です。
 「慈しみ」は、ヘッセード(חָסֶד)、神の約束された恵みと変わらない愛を表す言葉です。ダビデは、神との親密な交わりを通して、わたしの主のもつ「いつくしみ」がいかに素晴らしいものであるかを聞き、告白します。彼は、わが主の慈しみがあるため、決して動揺することはありませんでした。ダビデは、神の慈しみから離れることはしませんでした。一年を通して、あなたへの主の慈しみはどのように現れたのでしょうか。主の慈しみに生きる人は幸いです。
 最後に、「報い」は、シャーレーム(שָׁלֵם)で、ひとりひとり、すなわち神を信頼する者、自分の力に頼ろうとする者、それぞれに対して神が報いられるということです。聖書は、「主がそれぞれの行いに応じて報いられる」ことを繰り返し教えています。2017年の一年間、神は、ひとりひとりの歩みを知っておられます。それぞれに適った時に、それぞれにふさわしい恵みを与え、働きを与え、出会いを与えてくださった神を、賛美と共に証ししましょう。ハレルヤ!