2018.1.14

『 祝福の源となる人 』 (創世記12:1〜7)
 新年が始まってもう2週間が経ちました。神の家族の皆さんの計画通りに流れているでしょうか。とりわけ皆さんが今年こそは!と夢見ていることはどのようなことでしょうか。そしてそのことは神との交わりの中で得られたのでしょうか。
 神は歴史の中で常に御心に適う人を選ばれ、その人と共に歩まれ、その人を通して御業を成し遂げられるお方です。本日の聖書には神の選びの頂点ともされるアブラハムの召命物語の箇所です。後に“信仰の父”という呼び名で呼ばれるアブラハム、その一人の人を選ばれ、ご自身のビジョンを語られる神の熱心が明らかにされるのです。
 神がアブラハムに期待されるビジョンこそ、“地上のすべての民がアブラハムによって祝福に入る「祝福の源」となる”ことでした。もともとアブラムは聖書の神を知りませんでした。彼が生きていたハランという場所は人が作った神々を拝む偶像崇拝の地であって、罪と悪で満ちていた地でした。アブラムもその文化の中に染まって生きていたのでしょう。そこで神はアブラムを訪ねられ、彼に、慣れ親しんだ場所を離れ、神ご自身が示される地へと旅立つようにと命じられます。しかし、ただその場所を離れることに目的があったわけではありません。神はアブラムに「祝福の源」とするご計画を明かされ、彼の決断に迫られるのです。興味深いことに当時神より召命を受けた時のアブラムの年が75歳でありました。誰でも、年を取れば、自分が慣れ親しんでいた地から離れることは大変難しいことです。しかも、「父の家」のあるところでした。古代社会で、「父の家」を離れることは、命に関わる大切な決断が求められることでした。それだけではない。神は「わたしが示す地に行きなさい」と言われながら、行く先を教えてくださいません。
“さあ、どうしましょう。”・・・聖書は、“アブラムは、主の言葉に従って旅立った(7節)”と記します。彼が旅立てた理由こそ、彼を訪ねられ、彼に声をかけてくださった神が、今まで彼が拝んでいた偽りの神、死んでいる神ではなかったから。また、その神が約束された祝福の言葉の命とその確かさが彼の眠っていた魂を呼び起こしたことでしょう。
 そうです。神の人は、生きておられる神の御言葉に触れ、その御言葉を信じ従います。しかし、ここで考えてみましょう。この時アブラムは、自分が神の祝福の源となり、自分一人を通して、神の祝福と救いが全世界の人に及ぶという神の約束をどれほど理解できたでしょうか。しかしながら、アブラムは頭では理解できなくても、神の存在とその約束の言葉を信じて旅立つことができたのです。聖書は、アブラムという、一人の信仰者の決断と服従によって、祝福の歴史が始まったことを宣言するのです。
 新しい年を出発したばかりの神の家族お一人お一人にも神は等しく、訪ねられ、ご計画を語られ、従うことを求められます。願わくは、お一人お一人が「祝福の源」となるビジョンを抱き、身近な人々が神の祝福にあずかり、喜びの礼拝をささげるこの一年となりますように・・・。神の家族の一年の旅を祝福し祈ります。ハレルヤ!