2018.2.11

『福音の真理の上に立って生きる』 (ガラテヤの信徒への手紙2:11〜16)
 本日の本文の御言葉にはとても興味深いできごとが記されています。初代教会の指導者であったペトロとパウロにおける葛藤や対立、そのためパウロの怒りが爆発するという珍しい場面だからです。
 先週私たちはエルサレム使徒会議における出来事について分かち合いました。パウロ一行は聖霊に導かれてエルサレム教会を訪ね、エルサレム教会の主な指導者たちと福音について語り合い、神は決して人を分け隔てなさらないことを確認するという恵みを得、異邦人伝道の正当性を認められるという結果になります。その後、パウロはアンティオキアに戻ってきます。その後、今度はペトロがアンティオキア教会を訪ねることになります。なるほど、ユダヤ人のために遣わされたペトロたちと異邦人のために遣わされたパウロ一行が互いに訪問し合うことは、実に素晴らしいことです。しかも当時の初代教会のリーダーとしての象徴的な存在であったペトロが異邦人伝道の拠点とされていたアンティオキア教会を訪ね、共に食事をするということは、アンティオキア教会のみならず、異邦人たちにとってとても意義深いことでありました。
 主イエスによる食卓とは、ユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、健康な人と病人の皆が、ともに恵みの食卓に招かれていることを表し、福音の持つ豊かさが現される場でもありました。アンティオキア教会は、まさにそのような神の国における食卓の恵みをもっていて、ペトロもこの食卓の交わりに加わったのです。しかし、予想もしなかった出来事が、この愛餐の食事で起こったのです。“ヤコブのもとからある人々がアンティオキア教会にやって来ると、ペトロは割礼を受けている者たちを恐れて、しり込みし、身を引いてしまった”のです。ここでのペトロが感じた「恐れ」とは、どういうものでしょうか。この「恐れ」とは、常に人を恐れて態度を変えてしまうペトロの姿でした。“湖の上を歩く主イエスの招きに応えて、水の上を歩き始めたものの、風を見て怖くなり、主イエスから目を離して、おぼれてしまった時の姿であり、また、主イエスのためなら死ぬことさえ覚悟していると言い張ったものの、三度も主イエスを裏切ってしまった時の、恐れに怯えるペトロの姿です。しかし、ペトロの恐れより最もパウロを悲しませたのが、長い間、一緒に異邦人伝道に励んで生きたバルナバさえも、ユダヤ人の目を恐れ、逃げてしまったということでした。
 私たちの主イエス・キリストは、決して人を外見で判断することはなさいませんでした。むしろ進んで徴税人、娼婦、病人と言った罪人とともに食卓に着かれました。そして「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われつつ、すべての人のためにご自身のお体を分け与えられたことを忘れてはなりません。 
 最後に、パウロは「福音の真理にのっとってまっすぐ歩く」(14節)という言葉を用いて、チャレンジします。キリスト者の生活こそ、人を分け隔てなさらない、主イエス・キリストの福音の真理の上に立って、人の目を恐れず、この世の何にも縛られず、ただ主イエスだけに捕らえられ、主イエスの御言葉の福音の真理を歩むことです。ハレルヤ!