2018.2.18

『 十字架のイエス・キリスト (ガラテヤの信徒への手紙2:15〜21)
 敬虔なユダヤ教徒で当時のキリスト教徒を迫害していたパウロが、命をかけてイエス・キリストを宣べ伝える使徒へと劇的に変えられた理由は、復活したイエス・キリストとの出会いのゆえでした。律法を命のように大切にしてきたパウロにとって、十字架にかけられ死んだイエスという男は、ただの罪人で死刑囚に過ぎませんでした。しかし、そのイエスが復活しパウロを訪ねて来る。しかもパウロを律法でなく、十字架のキリストの福音を伝える異邦人の使徒とされるという召命をくださる。その時、パウロが感じただろう混乱は大変なものだったでしょう。
 その後、パウロイエス・キリストの福音、その中でも“主イエスが全人類の罪を贖うために十字架にかけられ死なれた、この主イエスを信じる者はみな救われる”という、とても単純で優しい福音の言葉をもって伝道の旅に出かけるようになりました。ところが、パウロが伝道するために行く先々で、伝道を妨げていた一番の壁が他でもない律法主義でした。その問題を解決するために「エルサレム使徒会議」が開かれたのです。その会議は“神は人を分け隔てなさらない”という確信とともに、律法で定められている割礼有無と関係なく、主イエス・キリストを信じることによって救われるという聖霊による結論をもって終わったはずでした。
 しかし、先週分かち合いましたアンティオキア教会でのペトロをはじめとするユダヤ人たちが異邦人との食事の交わりから離れてしまったことは、パウロに大きな衝撃をもたらしました。ここでパウロは信仰によって救われるという福音を守るために、たとえペトロとの関係が悪くなることがあっても、決然と立ち向かいます。真理は妥協したり、譲ったりするものではなかったからです。キリスト教会の信仰において十字架の福音と律法主義は両立できない。福音と律法の間の中間地帯がないように、恵みの信仰と行いの信仰の間にも同じく中間地帯はないのです。
 パウロはここで、自らの体験をもってイエス・キリストへの十字架の信仰を証しし、人間は決して律法によっては義とされないことを宣言します。もし人間が律法の行いによって自らを救うことができるならば、キリストは無駄に死なれたことになり、キリストが十字架で死なれる必要もなかった。キリストがわたしの代わりに十字架にかかり、わたしの罪の刑罰を受けられたがために、わたしには救いの道が開かれ、主イエスを信じる信仰によって一つとされたのです。
“わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:19〜20)・・・このパウロの信仰宣言は、歴史を通して数えきれないほどの人を恵みの信仰へ、キリストとの人格的交わりへと導きました。私もその一人です。“キリストの十字架は私のためである。私はキリストと共に十字架につけられて死んで、キリストと共に生かされている。その信仰によってキリストは私の内に生きておられ、私はキリストから受けた十字架と復活の愛を宣べ伝えるために生きる”という信仰告白は私の胸を熱くさせ、恵みに生きる人に変えてくれたのです。それでは、あなたは?!