2018.3.4

『 信仰の土台を問う 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:1〜6)
 “ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、・・・”という嘆きで始まるパウロの切ない教えが心に刺さります。ガラテヤ3章は「信仰か、律法か」というパウロの信仰と律法の論争の中心となる章です。ガラテヤの信徒への手紙全体に32回登場する「律法」という言葉ですが、3章だけで16回登場し、一方、手紙全体に22回登場する「信仰」という言葉が3章だけで14回登場するほど、信仰と律法を中心にクリスチャンの信仰をどう建て上げるべきなのかが大切に語られているのです。
 パウロが示しているガラテヤ教会の問題は、彼らがイエス・キリストの十字架の贖いの死と復活を体験し、その意味をよく知っていながらも、その信仰の内容を忘れ、律法という人の行いが中心となる過去の教えに戻ろうとしたことにありました。そこでパウロは恵みと信仰によってのみ救われることをガラテヤ教会の信徒たちに証明するために、“霊(聖霊)”を受けたことを思い出させます。クリスチャンとして救いを受けたことの証拠は、聖霊を受けたかどうかによります。ガラテヤの信徒たちが聖霊を受けたのが、律法の行いによったものか、それとも福音を聞いて信じたからなのかを確かめなければなりませんでした。確かに、ガラテヤ教会の信徒たちが聖霊を受けるために行ったことは、何もありませんでした。ただ、福音の御言葉を聞いて、信じただけです。そうです。「行い」とは、聖霊を受けるためにではなく、信仰によって受けた聖霊に満たされ、聖霊によって初めてできることです。この順番を間違ってはならないのです。
 そこでパウロは、律法の行いではなく、福音を聞いて信じる信仰によるということを、旧約のイスラエルの父祖であるアブラハムを挙げて説明します。パウロアブラハムこそ律法の代表者でなく、信仰によって義と認められた信仰の代表者であると宣言します。“アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた(3:6、創世記15:7)”という創世記の言葉を引用することで、アブラハムが信仰によって義と認められたことは、すべての人が信仰によって救いを受ける証しとしての実例となったと語ります。ですから、アブラハムが信仰によって義と認められたことは、それを信じるすべての人に適用されるのです。すなわち神を信じる人はアブラハムの子孫となり、アブラハムと同じ祝福を味わい、アブラハムのように祝福の源となり、神の国を相続する人に変えられるのです。そこにはユダヤ人と異邦人の違いはありません。
 最後にパウロは、受難節を過ごしている神の家族に、“十字架の主イエス・キリストのお姿を目の前にするようにして、キリストの福音の言葉を、信仰をもって聞きなさい”と迫ります。信仰の土台こそ、神が語りかける愛の言葉、キリストの十字架を通して示された福音の愛の言葉を全身全霊をもって聞くことであり、その福音を生きることであることを心がけつつ、揺るがない信仰を建て上げましょう。ハレルヤ!