2018.3.11

《本日の証し》
「ただ主を待ち望もう〜東日本大震災を想い〜」
 本日3月11日で、東日本大震災から7年です。私は6つのころから30年宮城県仙台市に住んでいましたから、毎月この時期とくに心苦しく過ごします。ふるさとの街、耳によく馴染んだ名前の地域が地震津波で破壊され、多くの人々が亡くなり当時は御遺体の尊厳も十分に守ることならず、原発の崩壊で見えないハザードにさらされたこと、その心身の傷と生活環境への痛手が今もなお被災地とその人々に残っていることを想います。
 とりわけ姉の家族が被災しましたから、この時期彼女に慰め励ましの言葉を贈りたいと思いながら、自分はその経験をしていないということで臆してしまいます。しかし慰めの人でなければならないキリスト者の私がこれではダメです。いったい私は信仰者としてあの震災をどう捉えればいいのか?今回ちょうどこの日に証しをする機会をいただいたときに、聖書の「哀歌」を黙想しようと思いました。愛する町が崩壊・炎上し、人々が殺され傷つき苦しむさまを見つめて悼み嘆く私、という光景が、あの震災のイメージと重なるからです。これがわたしたちの神のみわざなのか、それを私はどう受け取ればいいのかを、聖書記者を通して語られるみことばから探したかったのです。
 でも、ちょっとハードなテーマなのでやっぱり私の好きなダニエル書あたりにしとこうかなと思い始めたときに、「リビングライフ」で与えられる毎朝のディボーションの箇所がちょうど変わりました。詩編の73-80編だったのですが、まさに哀歌と同じような内容でした。これはもう神様が「哀歌でユケ」と言っておられると感じそのまま行くことにしました。哀歌の記者も詩編の記者も、むしろ神の御手に苦しめられ、神の御怒りを感じ御顔がそむけられたように感じながら、むしろ「天地を造られ、自分を造ってくださった神」にしか救いはないという確信を強めます。さてディボーションでは詩編が終わって、第二コリントになりました。今度はそこにパウロが伝道旅行のさなか、激しい迫害に遭い死を覚悟したとき「死者を復活させてくださる神にのみ依り頼む」と心を決めたと記されていました。先日の世界祈祷日集会では「目に見える世界がどんなに悲惨であっても、「すべて良し」と言われた神のみことばを受け容れる」というメッセージをいただきました。そして神のみことばは、「すべて良し」を完成させるために世に来られ十字架で死なれ復活されたイエス・キリストへと最終的に私の黙想を導いてくださいました。やはりキリストを伝えずして、いかなる慰めも人に与えることはできないというのが結論でした。 
                 S.M姉