2018.3.18

『 宝を納めている土の器 』 (二コリントの信徒への手紙4:5〜12)
 旧・新約聖書を繋ぐ創造者なる神と民との関係を示すイメージとして、“陶器師と粘土”があります。愛なる神はご自身の民を、陶器師の手の中にある粘土のように自由に取り扱われます。そして粘土を使って何を造るか、それをつぶしたり、形を変えたりするのは、すべて陶器師の心のままです。粘土が、陶器師に向かって、何か文句を言ったり、欲を言ったりすることはあり得ません(エレミヤ18:1〜6)。
 そして本日の聖書箇所でパウロは、「宝」と「土の器」というイメージを用いて神と神の民との関係と役割を説明します。ここで「宝」とは、「イエス・キリストご自身とその栄光の福音」を表していますし、「土の器」とは今にも割れてしまいそうな人間、すなわち弱さと限界をもつ私たちキリスト者を指しています。
 パウロは、土の器のような私たちキリスト者が「キリストの宝」を納めている者として受けるべき苦難について、またそれらの苦難への信仰姿勢について次のように勧めます。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:8〜10) パウロがこのように告白できたのは、「弱さ」の現実の只中で宝を納めているキリスト者の内に働かれる、目に見えないけれども確かに働く神の力への信仰をもっていたからです。また、パウロイエス・キリストの死を身にまとうという苦難の道を歩んだのは、自己満足のためではなく、コリント教会の信徒たちにイエス・キリストの復活の命を証しし、彼らも苦難のただ中でイエス・キリストによる復活の命に与り、その命を現しながら生きるキリスト者になることを望んでいたからです。そうです。パウロはじめ、すべてのキリスト者は“イエス・キリストの十字架の死を、常に自分の体にまとっている存在、生きている間、絶えずイエス・キリストのために死にさらされていく存在”であることを心がけましょう。
 いよいよ受難節がクライマックスに向かっています。主イエスはすべての罪人たちを愛し贖うために苦難の道を歩まれ、十字架にかけられ死なれました。そして、三日目に死より復活されたのです。その主イエスに従うパウロや私たちキリスト者は、「宝」を納めている者として苦難に遭います。まさに土の器のように壊れやすく、自分の惨めさや無力さに気づくかもしれない。しかし、私たちを生かすものこそ、「宝なるイエス・キリスト」であることを覚えましょう。大切なことは、「器が宝の価値を決めるのではなく、宝が器の価値を決める」ということです。ですから、創造者の御手によって造られた「土の器」である私たちは、絶えず私たちの内にある「宝」を喜びつつ、「宝」なるイエス・キリストの栄光を現すことです。あなたの内に納めている宝を確認しつつ、宝を誇る日々になりますように…。ハレルヤ!