2018.3.25

『 十字架の上で 』 (ルカによる福音書23:33〜43)
 ゴルゴタの丘の上に3つの十字架が立てられました。中央にイエス・キリストの十字架が、その左右には他の犯罪人の十字架が。その十字架の周りでは、“ローマの兵士たちが主イエスの着物を前にしてくじを引いていて、ユダヤ教の指導者たちやユダヤ人たちは主イエスを嘲笑いののしっている。またイエスを慕っていた人たちは遠くから胸を打ちながら悲しい涙を流している。”そして、十字架上の主イエスは極度の痛みと苦しみに耐えながら、旧約聖書で預言された神よりゆだねられた最後の使命を果たしておられる。その時、叫ばれる主イエスの祈りの言葉がありました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)・・・主イエスは十字架を囲んでいた人々を非難したり、恨んだりせず、ただただ彼らを赦され、神に赦しを求めるだけでした。
 しかし皆さん、いかがでしょうか。「赦す」ということはそれほど簡単なことでしょうか。いいえ、他人を赦す、中でも自分を苦しめ、殺そうとする人を赦すということは実に難しいことです。普段、人を赦すというと、そこに条件を付けたり、代価を求めたりします。時には、赦したはずのことを思い出してはむしろ恨みと憤りが込み上げてくるのも経験するほど、人を赦すことの難しさに気づきます。
ここで私たちが確かめるべきこととして、“イエス・キリストの十字架の赦しには差別がない”ということです。ユダヤ人とローマ兵、指導者と民衆、男と女、ご自身を愛する人も、憎む人も関係なく、すべての人を赦されました。その赦しは時代を超えて今現代の私たちにも等しく示されていることを覚えましょう。
“彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)”・・・私たちキリスト者は主イエスの十字架によって赦された存在です。そしてその十字架のイエスのゆえにすべての人を赦すことができます。十字架こそ、罪の中で滅びていく人類を救おうとされた神のご計画でした。主イエスは、聖書に書いてある通り、神の独り子としてこの世に生まれ、ご自身の体をもって、全人類を救う贖いのいけにえとなり、赦しを得るための救いの道を開いてくださったのです。
最後に、主イエスは死を目前にしても、赦しと救いの働きを休まれません。同じく十字架にかかっていたもう一人の犯罪人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と語られる。そうです。十字架の赦しに時間と場所とは関係ありません。今あなたがどんな状況にあり、どんな問題を抱えていても主イエスは十字架の愛と赦しを受けることができ、新しい人生を始めることができるのです。