2018.4.1

『 どうして疑うのか 』 (ルカによる福音書24:36〜48)
 イースター、主イエス・キリストの復活をおめでとうございます!!!
 クリスチャンでもクリスチャンでなくても、イエス・キリストの誕生と十字架の出来事を信じる人は多いです。しかし、イエス・キリストの復活を信じる人は少ないです。赤ちゃんが生まれること、また、人が死ぬということは、いつも目の当たりにすることであるから、特別に疑問を抱いたり、疑ったりすることはありませんが、人が死から復活し生き返るということを理性的に受け入れることはなかなかできないことだからです。しかし、キリスト教キリスト教となる理由こそ、十字架の死と復活にあるわけです。キリスト教から復活を取り除くことになれば、キリスト教はもう存在できなくなりますし、その命を失ってしまうことになります。今日礼拝に集われている皆さんは、いかがでしょうか。
 聖書は、イエス・キリストの復活についての、多くの証拠を記しています。とりわけ、本日の聖書の御言葉では、復活された主イエスが、弟子たちに復活の確信を与えるためになさったことを見てみましょう。
 まず、復活されたイエス様は、“シャローム、あなたがたに平和があるように”と弟子たちに語りながら、彼らの真ん中に立たれます。弟子たちは、主イエスが捕えられ、十字架の上で死なれることを目の当たりにした時から、まるで、羊飼いを失った羊のように、恐れと暗闇に覆われていて、何をすべきかも知らず、小さくなっていました。そんな弟子たちに、まず求められたことが“平和”でした。暗闇に光を照らすと暗闇が消えるように、恐れは、平和が来ると消え去ります。弟子たちの恐れは、イエス様の平和を通して消えていきます。今も同じです。復活の主の真の力は、あなたに平和をもたらされるということです。
 次に、主イエスは弟子たちに傷ついたご自分の手と足を差し出されます。亡霊には肉と骨はありませんが、復活されたイエスは、肉と骨の新しい体をもって、弟子たちの前に立たれたのです。半信半疑で疑っている弟子たちに、ご自分の釘跡の手を差し伸べ、その手に触れるようにと命じられます。そして、主イエスは、弟子たちが復活信仰をもって救われ、証人として生きるようにと御声をかけられたのです。
 最後に、主イエスが見せた証拠は、弟子たちと共に食事をすることでした。焼いた魚を一切れ、弟子たちの前で食べられたのです。イエス様は弟子たちに復活のお姿を示すために、一つ一つ、丁寧に示してくださいます。復活はしっかりと触ることができ、体験することができるものです。主イエスが弟子たちに求められたのは、「復活の証人になる」ことでした。主イエスは、今日も私たちの生活の真ん中に立たれて言われます。「どうして疑うのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。」と。復活への確かな信仰をもって生きる人は幸いです。ハレルヤ!