2018.4.8

アブラハムのように 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:6〜14)
“それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。(3:6)” パウロの信仰義認のメッセージが本格的に始まります。そして、その中心にユダヤ人の祖先であるアブラハムの信仰を置きます。アブラハムとはユダヤ人の祖先だけでなく、イスラムの祖先でもある人物です。聖書時代のユダヤ人たちは、「我々の父はアブラハムだ。」(マタイ3:9)と誇り、「アブラハムの子孫だから救われる」という選民意識をもって生きるほどでした。しかし、パウロは本当のアブラハムの子孫こそ、選ばれた民のユダヤ人でも、世界最高の知識を誇っているギリシャ人でもなく、最高権力のローマ人でもなく、ただ信仰によって生きるすべての人であると宣言します。
 聖書が紹介しているアブラハムは特別な才能の持ち主でも、圧倒的な力を振るっていた英雄でもありませんでした。アブラハムアブラハムとしたのは「信仰」のみ。とりわけ、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。」(創世記12:2)という初めての神の声に従って、生まれ故郷を離れ未知の世界へと旅立った75歳の日から、100歳という可能性0%の状況に追い込まれた時でも、また奇跡的に得られた息子イサクをいけにえとしてささげなさい!という理不尽な神からの命令を前にした時でも、アブラハムはただひたすら彼に約束を与え、彼を導き出し交わってくださった真の神への信仰をもって歩み続けたのです。その信仰によって神は祝福され、同じく信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるとパウロは語っているのです。
 パウロは、「信仰によって生きる人々」に対しては「律法の実行に頼る者」、また、「祝福」に対しては「呪い」という言葉を対比して語り、「律法の実行に頼っては決して祝福を受けることができず、呪われることだけだ」と教えます。なぜなら、人間が律法を完全に守ることはできないし、律法を守ることができない自分自身の弱さに陥り、やがては律法を守れない罪人として呪われるしかないと断言しているのです。 
 そこでパウロが示している道こそ、主イエス・キリストの十字架のみもとです。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(3:13)そこで十字架の主イエスを仰ぎ、その十字架による罪の赦しを信じ、十字架の贖いにすがって進むことができ、ついには私たちも主なる神がアブラハムに与えてくださった祝福を受け継ぐ者となることができるのです。2018年度を始める神の家族お一人お一人が祝福の源となるビジョンのもと、アブラハムのように信仰によって主に喜ばれる歩みを続けられますように…。ハレルヤ!