2018.4.15

『 何か見えるか 』 (マルコによる福音書8:22〜26)
 本日の聖書箇所は、一人の盲人との関わりを通して、今まで見たことのない主イエスの癒しの物語が描かれています。とりわけ、人が主イエスとの交わりの中で信仰の目が開かれていく段階について記している貴重な場面となっています。 
 まず、主イエスは、その盲人の手を取って、彼を群衆から引き離して、村の外に連れ出される行動をとられます。まるで主イエスがその人と二人だけになることを望まれているように・・・。今まで人を頼りにし守られながら生きてきた盲人であったために、人々から離れるということは不安だったに違いありません。しかし主イエスはその盲人を人々との関係ではなく主イエスとの一対一の関係へと導かれます。主イエスは私たち一人一人のことをよくご存じであって、一人一人にふさわしい関わり方で交わってくださることを覚えましょう。
 次に、主イエスの癒しの働きがとても詳しく描かれているということが分かります。今までの主イエスの癒しのシンプルな物語と違って、本日の物語では、「その人の目に唾をつけ、両手をその人の上に置き、何か見えるかと尋ねられる。そしてもう一度両手をその目に当ててはっきり見えることを確認されてから家に帰される」という、珍しく詳しい書き方がなされているのです。この主イエスの姿は、まるで現代の医者が患者に優しく語りかけながら治療していく光景を思い起こさせるように描かれています。
 最後に、主イエスの癒しの働きがいくつかの段階に分かれているという点です。最初の時には、ぼんやりと見えていた盲人の目が、二度目に主イエスの手に触れることではっきりと見えるようになるとあり、主イエスの癒しの奇跡が漸進的になされていることが分かります。これが意味するものは何でしょうか。実は、この出来事は、キリストとの交わりの中で成長していく弟子たちの姿を表す物語でありました。主イエスの弟子たちは、最初から主イエスがメシア(救い主)であることをはっきりとは知りませんでしたが、少しずつ少しずつ主イエスの御手に触れ、御言葉をいただき、また、日々主の御手の業を目の当たりにする中で霊の目を開かれ、やがて主イエスを「あなたこそ、メシア(救い主)」と告白することができたのです。ここに私たちキリスト者の希望が見えてくるのです。
 信仰は、本日の盲人のように段々と見えるようになっていくものです。ですから、信仰について、また主イエスについて、はっきり分からないように思われる方々も失望する必要はありません。御手に触れていく日々の中で、わたしたちははっきりと見えるようになりますし、キリストの証人、成熟した主イエスの弟子と変えられるはずです。2018年度の新しい歩みの中で、主イエスとの関係が深められ、信仰する感動に満ち溢れる神の家族でありますように…。