2018.4.29

『 主の救いを喜ぶ 』 (マタイ5:13−16)
 聖書は、地の塩になりなさいとか、世の光になりなさいと言っていません。努力目標でもありません。もうすでに、地の塩であり、世の光なのです。そのように主が宣言しているのです。私たちは地の塩として働かなければならないし、世の光として、良い行いをしなければならないと考えていたかもしれません。でも、そうではないようです。端的に言って、このみ言葉は、教会の在り方と使命を示しているのです。
 地の塩:一般的な塩の働きは「腐敗防止」「味付け」でしょう。そして、「健康に不可欠」なものです。塩は他のものに浸透して他者を生かすものなのです。塩が「私は塩だ!」と自己主張したらとんでもないことになります。そのような塩の性質を「教会」が持っているのです。教会が世を腐敗と堕落から守るのです。塩は、なくてならぬものなのです。そのように、私たちの教会はこの地になくてならぬものなのです。
 マルコ9:50は自分自身の中に塩を持ちなさいと言います。ここでは、弟子たちは塩と同じにはみられていません。塩は、イエスキリストの福音です。そして、教会はそのキリストの福音を預かっているのです。キリストの言葉が「塩」です。ですから、「あなた方は地の塩です」ということは、あなた方は地の塩である主の福音を委ねられており、キリストがその福音の言葉とともに働いて、あなた方を地の塩とするというのです。それは、光についても同様です。
 世の光:ヨハネ福音書の冒頭で「まことの光が世に来てすべての人を照らす」と語られています。キリストにおいて神の光はこの地において見えるようになったのです。光も主イエス様に与えられるものです。光はイエス様です。私たちは光に照らされたものです。その私を主は光とされるのです。主が光とされている私に向かって、「私はあなたを隠さない」と言っているのです。違う言い方をすれば、「私は必要とされていない」とか、「私には能力がない。役に立たない」などと言ってはいけないということです。主の十字架の贖い、救いこそが「光」なのです。福音が「光」です。
立派な行いとは、生かされていることを心から喜んでいること、感謝していることなのです。信仰から溢れるあなたの喜びと感謝と笑顔が、「良い行い」であり、人々をキリストへと導くのです。 
                田口昭典牧師