2018.5.6

『 変わらない約束 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:15〜22)
 皆さんは大切な人との約束を忘れ、大変な思いをしたことがあるでしょう。そして大切に覚えていた約束を相手が忘れてしまい失望したことはないでしょうか。・・・それほど人は忘れがちで失敗ばかりしてしまう存在でしょう。よく“人間は忘却の存在!”とも呼ばれるほど、人は絶えず忘れてしまいます。
 しかし愛なる神は神の子どもたちと交わされた約束を決して忘れることなく、真実と誠実をもって守られるお方です。とりわけ旧約聖書では契約に基づいた愛を表すヘッセードという言葉を繰り返し使っていて、その成就としてイエス・キリストが与えられたことを心がけましょう。
 さて、本日の御言葉には父なる神と私たち神の子どもたちの間に交わされた約束についての神様の熱情について記されています。聖書の福音の約束として、私たちは神の恵みをいただいて、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われた者であることが記されています。しかし、そのような約束をいただいたにも関わらず、なお律法の行いにすがり、人間の行いによる義を打ち立てようとする過ちに陥るガラテヤの人々に、パウロは再び信仰の父アブラハムを示すことで神の約束を思い起こさせます。
 先日学びました6〜14節ではユダヤ人にとっての信仰の父アブラハムがなぜ神から義と認められたのか、その理由について分かち合いました。アブラハムが義と認められたのは、彼の行いではなく、主の約束を信じて信仰の歩みを続けていたことを明らかにしました。とりわけ“自分たちこそアブラハムの子孫だ”と誇っているユダヤ人たちに対して、異邦人だろうが、何であろうが「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子」であるときっぱりと言い切るパウロの言葉をいただきました。
 そこでパウロは、「では、律法とはいったい何か」という疑問について、アブラハムの召命の物語から律法を授かった間の出来事をもって説明しています。そして「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの」(19節)であると定めます。「約束を与えられたあの子孫」というのは、キリストご自身を意味するもので、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって成し遂げられるのです。
 神は、イエス・キリストを遣わして私たち罪人の罪の代価を負わせ、キリストを信じる者に救いを与えました。これこそ律法ではない信仰による約束の成就、まさに救いの恵みでした。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、キリストのうちにある約束によって神の子とされたのです。この祝福の約束を無効にすることはできません。独り子の命をかけての父なる神の約束だからこそ、決して変わることはないのです。だから、イエス・キリストを信じるあなたの歩みをもっと強く確かなものにして行こうではありませんか。ハレルヤ!