2018.5.27

【本日の証し】
     『 いつか、青空』 (ローマの信徒への手紙8:18-30)   
 「ここはねぇ、窓からの景色が拡がり、青空が見えるんだよ。本当にありがたいよ。毎日、ありがたい、ありがたいの連続だよ!」水曜日に父を訪問しました。父は、101歳となる直前、約65年間住んだ渋谷の家を出る決断をし、私が監事をしている社会福祉法人賛育会のサービス付き高齢者向け住宅「清風ヒルズ金井」に引っ越しました。父がここでの生活を楽しんでいることに家族はホッとしています。
 「茂、いつかいいことあるよ。」日本がベトナム戦争支援を続け、沖縄を永久にアメリカの基地化とする1971年11月沖縄返還協定国会批准が決まった日に、高校2年生だった私は、沖縄ではなく修学旅行先の京都で自暴自棄となり、仲間と煙草を吸いながらウィスキーをがぶ飲みし、停学処分になりました。私を引き取りに東京駅に迎えに来た父は、「茂、お前が戦争反対や差別など世界のために活動していることは知ってるよ。でも、もっと身近なことからやったらいいんじゃないか。停学なんか気にしないでいいよ。いつかきっといいことあるよ。」私は、脳天を打ちつけられたようになりました。
 「お前のことをいつも祈っているよ。」修学旅行の途中で護送付きで返させられた新幹線の中の数時間、私の目は吊り上がり、父が「島田家の面汚し、勘当だ」と怒るだろうと予想しました。過激派のシンパだったため、いよいよ家を出て、より直接的で過激な活動に突入しようと暗い決意をしていました。私の予想に反した父の言葉に、私は正直戸惑いました。「お前が何をしようが、どんなことも神様は知っているんだよ。いつか必ずいいことがあるよ。だから、周りのことから始めたらどうかい。」と。私は、なんでそんなことが言えるんだと思う反面、安堵したような気持になり、互いを殺し合うようになった過激派の活動から目を覚まされたようになりました。
 「♪あ〜りがぁたや、ありがたや♪」1916年3月18日に日本橋の袂で生まれた父は、虚弱体質だったため3歳で母親と埼玉県飯能に移り住み、清流を望む自然の中で身体も丈夫になり、クリスチャンだった母親から聖書を学びました。1938年に陸軍に召集され、重機関銃の兵隊として訓練中馬にけられて入院、その間事務方に転じて、1940年南京に派兵、そこでYMCAに関わるようになりました。上官との衝突がきっかけとなり1942年1月にシンガポール戦線に転出され、第2次部隊の一員としてシンガポールに入りました。そこで中国人の母と出会ったのです。
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章28節)父の中で通奏低音のように流れている聖書の言葉です。感謝です。                                島田 茂