2018.6.3

『 イエスを着ていますか 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:26〜29)
 パウロは、神の恵みを知ってイエス・キリストを救い主と受け入れた人が、いかに素晴らしい祝福に与っているのかを話し始めます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(26節)・・・ 律法の下では、私たちは皆が罪人でした。しかし、今や恵みの約束を通して私たちはキリストを知り、救いに入れられ、神の子とされる新しい時代の中を、生かされるようになったのです。神の呪いと裁きから逃れられない罪人が、神の子となるということ、これほど素晴らしい恵みがあるでしょうか。
 「洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(27節) パウロは、私たちが神の子とされることを洗礼(バプテスマ)の恵みを用いて「キリストに結ばれた者」、「キリストを着た者」と表現します。「キリストに結ばれた者」、これは植物の「接ぎ木」をイメージした言葉です。前の段落で、「親と子」のイメージを用いたパウロが、ここではキリストという台木とその台木に接がれた接ぎ木のイメージで、神と私たちとの関係を言い表しているのです。ここで興味深いことは、この二つのイメージのどちらも命の結びつきがあるということです。そうです。私たちは、キリストという台木に接がれて命をいただき、生きる者とされた。イエス・キリストに結ばれることで命の養いをいただき、愛を注がれ続けて成長していく。だから、イエス・キリストから離れては生きていくことはできないのです。洗礼(バプテスマ)は、そういう意味で、キリストに結ばれ命が流れるようになった出来事であり、また、キリストにある神の子としての、新しい霊的存在の誕生を表していると言えるのです。また、パウロバプテスマを受けてキリストに結ばれることを、「キリストを着る」ことになると教えます。罪に染まっていて、神の御前にそのまま進み出ることのできない私たちに、父なる神はすべてを聖めるイエス・キリストという上着を着せてくださり、キリストによって、私たちは聖い者となったことを宣言してくださるのです。ここでの「キリストを着る」という言葉は、十字架のイエス・キリストに聖められ、日々の生活において主イエスに似た者として生きるという意味でもあります。昔から人の着る服によって、人のイメージを変えたり、その服によって生活も変えられるのを目の当たりにしてきました。同じように私たちがキリストを着るということは、その人がどんな人であっても関係なく、キリストと一つになることです。
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(28節)・・・ そうです。主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、キリストという上着を着せていただいたことによって、神は民族の違い、階級の違い、人種、性別の違いに目を留めることをなさらず、ただ「キリストにおいて一つ」になされると宣言されるのです。
 愛する神の家族の皆さん、隣を見てください。隣の兄弟と姉妹が着ているイエス・キリストという美しい服を見ていますか。互いにイエス・キリストを着ている者として誇り、キリストにおいて一つとされたことを喜びましょう。ハレルヤ!