2018.7.1

『 キリストが形づくられるまで 』(ガラテヤの信徒への手紙4:8〜20)
 以前、「神なき時代」という言葉がしきりに使われ「神の死の神学」が盛んに議論され、実際に世界的運動にもなった時代がありました。その中で“神はすでに死んでしまった概念に過ぎない。世界は人間の力で変えて行くべきだ"という主張や運動が社会を覆うようになりました。そこで人は神を離れるところに自由があると思い、神を否定し、人が大切にしていたものや価値を神の座に置くことにしました。しかし、神なき自由どころか、自らが作った神々に支配される現実となってしまっているのです。
 パウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)と問いかけます。「神から知られている」とは、ただ単に神から知られているという意味ではなく、私たちこそ「神の愛の対象であり、神との親密な交わりを許されている」ということを表します。そして神がその愛のしるしとして、罪の中で滅びていく私たちを救うために御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったことを教えます。これこそ「福音」でした。
 パウロの伝えようとした福音こそ、神の独り子が旧約聖書の約束通り、十字架にかかりすべての罪の贖いとなり、すべての人々の身代わりとして死んでくださったことでした。ガラテヤの信徒への手紙は十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を合わせているのです。また、パウロが語り続けていた福音とは、十字架の上で死なれたイエス・キリストが死より復活されたということです。そして復活されたイエス・キリストは天に昇り父なる神の右に座られ支配しておられ、ご自身の代わりに聖霊を贈られ今も神の民と共に生きておられるという、とてもシンプルな内容です。
 最初に救われたクリスチャンたちはこのようなシンプルな福音を携え、人々に“ただイエス・キリストの名に基づく罪の赦しと救い”を伝えたのでした。ガラテヤ教会が最初にパウロより受けた福音がまさにこれでした。しかし、開拓者のパウロが離れ去り、しばらく時が流れると、福音というシンプルな信仰に、少しずつ理論的説明が加えられ、福音を生きることより、福音を守るということに重点が置かれるように変わっていきました。ちょうどその時にガラテヤ教会に入ってきた偽りの教えが、旧約の律法の行いが伴わなければ救いもない!というものでした。罪人の救いはただイエス・キリストを信じる信仰によって得られると言われていた福音から、旧約の割礼や救われるための方法論、その後時代の流れの中で、礼拝の形式、マリア崇拝など、最初の福音がいろんなもので飾られるようになり、いつの間にか、信仰する喜びと感動が薄れ、福音でないものに支配されてしまうように変わってしまったのです。
 そこで叫ばれるパウロの言葉に耳を傾けましょう。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)ここにキリスト教信仰の究極の形が示されます。キリスト者の内に「キリストが形づくられる」こと、私とあなたを通してキリストを見ることを神は望んでおられるのです。ハレルヤ!