2018.7.8

『 奴隷の子、自由の子 』 (ガラテヤの信徒への手紙4:21〜31)
 最初に質問から宣教を始めたいと思います。神の家族の皆さん、皆さんの日々の信仰生活は幸せでしょうか。...私たちの信仰生活は、主イエスとの交わりを通して幸せを実際に味わえるものです。もし、あなたの信仰生活が幸せではなく、何かに抑えつけられているのでなれば、それは律法的な信仰の影響下にある証拠と言えましょう。 
 本日の御言葉の中で、パウロは二つの約束を提示します。一つは律法の約束、そしてもう一つは恵みの約束です。そしてパウロはこの二つの約束を説明するためにアブラハムと二人の女性と二人の息子を登場させます。ご存知のように、二人の女性とはサラとハガルで、それぞれに息子が与えられました。サラを通して得た子が「イサク」、ハガルを通して得た子が「イシュマエル」です。パウロはイシュマエルを奴隷の子、イサクを自由の子として記します。
もともと神はアブラハムとサラの間に一人の息子を約束されました。しかし、100歳が近づいても神に約束された息子は得られなかったのです。そこでアブラハムはサラの助言を受け入れて、人間的方法と努力によって女奴隷のハガルにより一人の息子を得ることになります。その子が「イシュマエル」です。その通り、イシュマエルは「肉によって生まれた子」であるのです。ところが、イシュマエルは約束の子でなく、神はその息子を喜ばれませんでした。
 私たちがどんなことをしても、たとえ教会での奉仕をし、海外宣教をし、偉大な業を成し遂げたとしても、それらが人間的方法と計画、人間的努力でなされたのであれば、それらすべては決して神が喜ばれませんし失敗に終わるのです。大切なことは、「神の約束に基づき、神が望まれ、神が喜ばれる方法で成したのか」ということです。そうです。神の御言葉と約束に基づかなければ、無駄なことになるのです。
 アブラハムは人間的計画、肉体的努力によって息子を得ましたが、神の時が訪れた時、神の計画通り、神の方法によって一人の息子が与えられました。その子が「イサク」だったのです。すなわち、イサクは人間的計画や努力によって得た息子でなく、神の約束のもと、神の方法で、神の時に与えられた子、約束の子だったのです。サラが90歳、そしてアブラハムが100歳になった時、神の約束通り、イサクはこの世に生まれたのです。私たちは“ああ、もう少し待っていたら、神の約束を信頼して耐えていたら・・・”と思うわけですが、そこにこそ、人間の弱さがあるのです。 
 愛する皆さん、私たちの救いは、人間的方法や努力によって得られるものではないことを知っていますよね。救いは「ただ信仰によってのみ」得られるものです。ここで私たちがしっかりと心がけなければならないことは、信仰とは私たちの思いや感情からくるものではなく、神の御言葉の約束によるものであるということです。「イサク」という名前は“笑う”という意味をもっています。私たちが神の約束とご計画に従った時、神は喜びに満ち笑ってくださるでしょう。ハレルヤ!