2018.7.15

〜生きた礼拝者の目をもって〜
“みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)”  
 神を礼拝するとはどういうことでしょうか。綺麗な服を着て、立派な礼拝堂で、綺麗な讃美をし、流暢な祈りの言葉を羅列し、備えた献金をささげ、牧師より聖書のメッセージを聞き、満足して礼拝堂から家に帰るということが礼拝でしょうか。昔から礼拝というと、目に見える形式を大切に守り、繰り返し真面目にこなしていくことに重みをおいていました。そうすることで、神への心理的な安定、また自らの信仰生活に満足感を覚えていたことでしょう。しかし、そのような目に見える宗教生活のみを大切にすることで、見えない神との人格的な交わりや、神が求められる礼拝者としての生き方を粗末にしてきたのかもしれません。まさしく、世界に正しい神の言葉を発信すべきキリスト教会とキリスト者たちが、むしろ世界の流れや価値観に呑み込まれないことを心がけることです。今の私たちの教会とキリスト者の礼拝とその生き方は正しいところに立っているでしょうか。間違った道を歩いている世界に向けて神の御心を発信しているでしょうか。かえって、教会が世界の罪と悪を正当化してしまっているような現実ではないでしょうか。
 私たちの生きている日本社会を、生きた礼拝者として、預言者の目をもってしっかりと見つめることです。そんな中で様々なことが見えてくるでしょう。今も神は、神の愛と憐れみを携え、悲しい涙を流す人々に良い知らせを分かち合い、常に神の正義を慕い求め、神の国を実現しようと働く一人の生きた礼拝者を求めておられるはずです。そして、神はその人に御声を聞かせ力を賜ることでしょう。愛する神が生きた礼拝者である神の家族お一人お一人を喜ばれ、わが群れを通して神の国の栄光を現わされますように…。シャローム