2018.7.29

『生きる力を与える愛』 (第二コリント5:13—14)
 愛は人間存在の最も根源的な欲求である。人は誰でも誰かに愛されたいと願っている。愛など必要ないといくら強がりを言っても、私たちは愛なしには生きていけないのです。みんな愛を求め、それを得られず傷ついたり、失望したりするのです。たった一人でもいい、私のことをわかってくれる人がいれば、私たちは生きることが出来るのです。
 愛される経験、すなわち「私は愛されている」と感じるとき、生きる力、勇気が湧きます。
私は山田洋次監督と渥美清さんのコンビの映画「男はつらいよ」シリーズの映画が大好きです。ギネスブックに登録されているというから驚きです。何がいいのか?それはこの映画が「愛で満ちている」からです。フーテンの寅さんは、自分のことではなく、他人のことで悩み、悲しみ、腹を立て、親身になってその人を支える。いつも振られる役回りで、周囲をハラハラさせるけれどもみんな彼の存在によって、元気をもらっている。それは寅さんが愛の人だからである。
 寅さんこと、渥美清の兄弟は皆クリスチャン、お連れ合いも熱心なクリスチャンだという。その愛に囲まれて寅さんという人格が築かれていった。病床にあって洗礼を受け、クリスチャンとして天に召されたという。山田洋次監督は、「僕は渥美清さんほど謙遜な人を知らない」と言っている。愛と祈りに支えられた人生であった。
 使徒パウロは「キリストの愛が私たちに迫っている」と告白する。これはキリスト教迫害者が経験した体験的告白である。キリストの愛を知ってから、彼は一切のものを塵芥と思うようになった。彼は、「一人の人がすべての人のために死んだ」と十字架の意味を悟った。あれほど迫害をした自分を許し、捉え、用いるキリストの前に彼は我を忘れた。私が生きているのではない。キリストが私の中で生きているとさえ告白する。パウロは、共に歩まれるキリストをいつも信仰の目で見、聞き、祈り、感じていた。
 キリストの愛は人を生かし、人を助け、人を育てる力である。人は愛なしには生きられない。キリストの愛は、人に尊厳を与え、人を生かす。キリストの愛は、いと小さきものに注がれる無償の愛である。神の愛は具体的には、聖書では、インマヌエルの事実に現れる。「神我らと共に」である。神の愛は私たちの力の源である。共にあることの安心、心強さ、というものである。母の懐に抱かれる幼子は安らかである。私たちも、キリストの愛の懐に憩うとき、安心である。
 モーセは一介の羊飼いであった。それも逃亡中の殺人犯であった。絶対権力者のファラオにモーセが立ち向かうとことはほとんど考えられないことであった。無謀であった。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる」と約束する。そしてモーセは立った。不可能を可能にしたのは神の約束の言葉である。
 マタイは冒頭で「インマヌエル」を語り、最後にもう一度「世の終わりまであなたがたと共にいる」と「インマヌエル」を語ります。誰が私の人生を導き、守るのか?自分を任せることのできるのは誰か?会社か?政治家?学校の先生か?キリストの愛が強く迫っている。この愛に捉えられて、この愛を信じて神の家族を形成しよう。
                       田口昭典