2018.8.5

キリスト者の自由』 (ガラテヤの信徒への手紙5:1〜6)
“この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)”
 キリスト者の自由の「マグナカルタ」(大憲章)と言われる箇所です。“私たちに自由を得させるために、イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪の代価を払い、奴隷の子から自由の子にしてくださった。だから私は自由である!“と宣言できるようになったのです。神の子とされたキリスト者は、主イエスがくださる自由を生きることになります。パウロは、キリストが私たちを罪の呪いと束縛から解放してくださったのは、神の子どもたちが自由を生きるためであって、キリストの福音によって救われた人の人生こそが自由であると言います。それゆえキリスト者はどのような形でも、“奴隷の軛に二度とつながれてはならないのです。(1節)”と警告しているのです。
 長い間、牢に囚われていた人が、自由になっても牢にいた時の習慣をなかなか捨てられないように、罪から贖われて神の子として救われた私たちも、罪人の時の習慣を捨てることは難しい場合があります。しかし、いつまでも罪の軛につながれたまま生きることはできないのです。早くこの軛から自由にならなければなりません。それではどうすればいいだろうか。・・・その時、聞こえてくる声があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28〜30)そうです。 主イエスの招きに応え、主イエスがくださる軛をいただき、共に歩む決心をすることです。
 続けてパウロは、“割礼かキリストか、律法か恵みか”といった福音における根本的な問題を、自由との関連で取り上げます。律法の下で義と認められるために割礼を受けようとする者たちに、キリストから離れる危険性を指摘し、ただ聖霊によって義の望みを持つ者だけが、キリストと結ばれて救われると説明します。もし割礼を受け、律法主義を生きようとするならば、キリスト者に与えられた自由が無効になり、再びすべての律法を守る義務を負い、その結果、キリストと無関係な者になり、十字架の恵みから落ちることになるのです。パウロにとって信仰の中心となる教えについての妥協は決してゆるされないことでした。
 キリストによって義とされたら、以前の律法は救いの根拠として用いることはできません。もし律法によって義とされるなら、キリストを信じることで救われるという恵みから離れ、自分の行いが救いの基準になってしまうからです。もちろんキリスト者の真の信仰は善い行いに現れますが、それは救いを得るためのものではなく、キリストの恵みと愛を受けた者としての実践として現れるものです。すなわちこの時の行いとは神からの賜物であり、救われた者としての信仰を証しする道具です。ですから、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です(5:6)。」・・・そうです。律法の義務や恐れの中に愛は生まれません。だからこそ、私たちには自由が与えられていますし、自由の中でこそ、私たちは愛する事ができるのです。ハレルヤ!