2018.9.9

『 試練を喜ぶ?! 』 (Ⅰペトロの手紙4:12〜14)
 人生を生きる中で、いつも良い日だけがあるわけではありません。晴れの日があれば、曇りの日もありますし、激しい雨が降る日もあります。時には、地震ですべてが崩れ落ちるかのような体験もします。
 これらの経験はイエスを信じるクリスチャンであっても例外はありません。むしろ、クリスチャンはその信仰のゆえに受ける苦難があるのも事実です。このような苦難に遭う時、その苦難の意味を知って生きる人は知恵ある人であり、神の祝福を生きる人であると言えましょう。使徒ペトロは苦難に遭っている神の子どもたちにとても力強い言葉をもってチャレンジします。
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです(4:12―13)。”
「火のような試練」とは、ただの比喩表現ではなく、手紙が書かれた当時の初代教会が実際、身をもって体験していた試練でありました。イエス・キリストを信じるということで、ローマの円形劇場でライオンの餌になる時もあり、火炙り刑に処せられる時もありました。そこでペトロは「ふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しむことなく、むしろ、喜びなさい。」と勧めます。すなわち、そのような試練を人生の中で被る想定内のこととして受け止めて、気持ちを落ち着かせるようにしなさいということです。なぜなら、試練こそキリストの苦しみにあずかれる恵みであるからです。宗教改革者のマルティン・ルターは試練を「第三の礼典、サクラメント」であると言いました。主の晩餐式やバプテスマ洗礼式のようにキリストと一つになる神秘であるというのです。なぜならば、苦難や試練を通して私たちはもっと清く純粋になり、神の恵みに与る恵みの手段になるからです。実際、使徒たちは迫害の苦しみにあずかる時、キリストの苦難にあずかることで喜んだ!と記されています。   
“それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び・・・、(使徒5:41)”
 愛する神の家族の皆さん、私たちの主イエス・キリストは苦しみを受けた後、栄光を受けられました。私たちがキリストの苦しみにあずかるのであれば、私たちも同じくキリストと似た者に変えられていくのです。
 最後に、ペトロは“キリストの名のために非難されるなら、それが幸いである。(4:14)”と教えます。なぜなら、“栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(4:14)”・・・聖霊は神の子どもたちといつも共におられ、試練を通して栄光から栄光へと変えてくださるお方、そして耐えられない苦難から逃れる道をも備えてくださり、それに勝てる力もくださるお方なのです。願わくは、試練からもたらされる祝福を受ける光輝く神の家族お一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ!