2018.9.30

『 肉か、霊か 』 (ガラテヤの信徒への手紙5:16〜26)
“霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません(5:16)。”
 福音を知り、イエス・キリストを信じて救われた者にも、依然として残されているのは人間の本性とも言える肉的な性質です。バプテスマ(洗礼)を受けクリスチャンとなれば、奇跡的に新しい人になり新しい人生を始めることができるのかと思う人は多いでしょう。しかしそのような思いは錯覚であり、不可能なことです。むしろクリスチャンになったことで、今までは悩みもしなかったことが悩みの理由となったり、全く気にしていなかったことが気になるように変わったりします。なぜならば、その人の内側に聖霊によって新しい人が生まれたからです。すなわち、神を知らなかった時にその人を支配していた「罪ある人間の本性」に対して、イエス・キリストを信じたことで新しく生まれた「神の子としての聖い性質」が葛藤を引き起こし戦いを始めたからです。この罪の支配下にある「肉の自分」と、聖霊支配下にある「神の子としての自分」の両者は熾烈な戦いを繰り広げるようになり、人生の終わりまでこれが続くことになります。
 そこで私たちが知らなければならないのは、私たちのもつ罪の本性は、この世にあっては消えることなく、絶えず刺激し、私たちを罪の支配下に捕えて置こうとすることです。その罪の影響下にいる人は、いかなる肉的な頑張りや努力をしても絶えず失望に陥ってしまい、罪責の罠に囚われてしまうのです。・・・しかし父なる神は私たちを愛し、私たちを罪の支配から解放してくださるために、聖霊を与えてくださり、聖霊の導きと感動に従って生きるようにと道を示してくださいました。ハレルヤ!
 パウロは私たちに尋ねます。「肉に従うか、霊に従うか」と。肉に従って生きる人は、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」(5:19〜21)すなわち、肉の業を行なうようになり、神とは関係のない人生を歩むようになると指摘します。しかし、聖霊に従って生きる人は、豊かな実を結ぶようになることを約束しています。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(5:22〜23)の実を結ぶと教えます。これらの実は人の努力で得るものでなく、ただ聖霊に満たされて生きる人に与えられる恵みです。ここでパウロが肉の「業」、聖霊の「実」と表現していることに注目しなければなりません。
 聖霊に従うことは決して難しいことではありません。なぜなら、それも聖霊が助けてくださるからです。その人は、日々聖霊の息吹を感じ、聖霊と共に歩む恵みを知り、人知を超えた喜びと平和で満ち溢れるようになり、生活の中には豊かな実が結ばれるようになるでしょう。これらは人の努力や頑張りによって得られるものではありません。
神の家族の皆さん、私たちクリスチャンは、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」(5:24)ことを覚えましょう。だから肉の欲に従うのでなく、日々、聖霊を信頼し、聖霊に相談し、聖霊に従いましょう。聖霊は肉の目には見えませんが、神の子どもたちの内側に生きておられ、絶えず導き豊かな実を結ばせてくださるお方であることを味わいながら生きる幸いをいただきましょう。ハレルヤ!