2018.10.7

『 互いに重荷を担う 』 (ガラテヤの信徒への手紙6:1〜5)
 いよいよ、ガラテヤの信徒への手紙を締めくくる最終章に入りました。律法か、恵みかを叫び、恵みに生きるキリスト者の自由を掲げてきたパウロは、最終章に来て恵みに生きるキリスト者と教会に求められる生き方を示します。
 パウロは、5章で聖霊によって歩み、聖霊の実を結ぶ、信仰者の心の内側の人格に結ばれる実について述べていましたが、6章に入ると、その心の人格が外側にどう現れるべきかについて教えます。パウロは5章で「隣人を自分のように愛しなさい」(5:14)の律法の隣人愛を勧めましたが、6章に入って「互いに重荷を担う」(2節)という具体的な指針を示すことで話を進めています。すなわち、愛をもって互いに仕え合う生活は、互いに重荷を担い合う生活です。パウロはここで、「キリストの律法」という言葉を用います。互いの重荷を担い合うようになれば、旧約の律法ではないキリストの律法(主の晩餐の時の新しい契約)、すなわち愛の戒めが全うされることになります。さらにここで注意したいことは、まず、自分自身が重荷を負っている存在であると認めることです。私たちは絶えず他人の重荷に関心を示します。しかし、「自分自身もまた重荷を負う人間であり、誤りを犯しやすく、助けを必要とする弱い存在であること」に目覚めることから始まるのです。主イエス・キリストが十字架を通して私たちの身代わりとなり罪と罰を担われたように、私たちも主イエスに倣い、互いに重荷を担い合うことへと歩み始めるべきです。
 とりわけ自分が隣人の重荷を負ったからといって、自分が特別な存在となったかのように高ぶり、傲慢になってはなりません(6:3〜4)。人を助けることは「キリストの律法」であり、キリスト者として当然あるべき姿であることをよく吟味しながら生活すべきです。当時のギリシャ世界では、他人を助ける善行に対して、公に代価が払われるような慣習がありました。しかしパウロの教えは、世界の価値観と正反対のことを示しています。キリスト者は右手が行った良い業を左手が知らないように自分を誇らない、また、喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣く生活を心がけて生きる人です。愛する神の家族の皆さん、私たちはいかがでしょうか。私たちの共同体は、互いの重荷を担い合っているでしょうか。偉そうに人の上に立とうとしたり、人を裁いたり、傲慢に振舞ったりはしていませんか。
 主イエスの十字架に立ち帰ることです。そこで、“君は罪人だったよ、君は赦されない罪の奴隷であって、滅びてしまう人生であったのだ。そんなあなたのためにわたし(イエス・キリスト)が十字架の血潮ですべてを赦し、あなたを罪ない者に清めてあげたのだ!だから、互いに罪赦された者として、めいめいが恵みに生きる者として、人に仕える僕となることだ!”と言われる主イエスの御声をいただき、御心をしっかりと心に刻み従うことです。
 10月は今から500年前に起きた「宗教改革」を記念する季節です。宗教改革こそ、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という信仰告白の上に立って成し遂げられた神による恵みの御業でした。ぜひ、“新しいぶどう酒を入れるために新しい革袋を備える”神の家族でありますように・・ハレルヤ!