2018.10.28

《執事による宣教》
『主よ、あなたがご存知です』
ヨハネによる福音書21:15〜19)
 今年の春から農業に従事し、毎日初めてのことばかりで失敗の連続です。私の失敗は先輩達が過去に経験したものばかりです。信仰生活においても自分の過去の経験、疑問やつまずきを話すことが誰かの恵みになると考えます。
 私が救われる前に抱いていた疑問は、神は愛であられるのに何故救われず滅びるものを放置されるのか?地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた子羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13:8)とあるように救われる者は天地創造の時から決まっているのか?イスカリオテのユダは滅びに至るように定まっていたのか?等です。まず、人の救いには何が必要なのでしょう。御子イエスを信じる信仰です。すなわち自分が神様に対して死刑に値する罪人であり、主イエスがその罪を全て負って十字架で死んでくださり、墓に葬られ、三日目によみがえり、今も生きて父なる神の右に座し執り成していてくださる。主イエスをそのようなお方であると信じて告白するなら救いを得て永遠の命に入ります。イスカリオテのユダの裏切りとペトロがイエスを捨てて逃げた行為は神様に対する罪としては同じです。違いはペトロはイエスを神の子と信じ告白していたことです。ユダももしイエスを売った後、悔い改めてイエスを神と認め主の元に立ち返ったなら救われたのです。滅びは自らが選んだのです。
 神は誰も滅びることを望まれず、定めてもおられません。只、自由意思を与えられたのです。例えばAを選んでもBを選んでも結果がAにしかならないならそもそも選択権を与えられていないのです。人が滅びを選んだ場合神様は悲しみながらもそれを尊重されます。神は愛であるが故に人を意のままに操るロボットにはなさいませんでした。
 何故天地創造の前から命の書に名が記されている者と記されていない者がいるのかと言えば、時間というものは主イエスによって造られました。ですから主イエスは時間という制約を全く受けないお方です。そのような方にとって人が人生の中の何時救われたかよりも、死ぬ前に救われたか否かのほうが重要です。人生のいずれかの時点で救われるのであれば全てを知っておられる神様の書に名が記されていても不思議では無いのです。命の書に名前を記すか否かは事実上その者自身が選ぶことを許しておられるのです。ですから私達は今すぐにでも救いを受けとることこそが神様に喜ばれることなのです。27年前教会を去り、イエスを棄てた私もユダと同罪です。しかし閔牧師を通して「あなたは私を愛するか?」と優しく声をかけて下さいました。「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。」とお答えします。
                                            S.Y執事