2018.11.11

『十字架、私たちの誇り 』 (ガラテヤの信徒への手紙6:11〜18)
“わたしには、…主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません(14節)” 皆さんはどんな誇りをもっていますか。誇りとは自分の存在価値を高めて示すことです。誇ることは、それが自分の人生においてとても重要だと認めることです。パウロはガラテヤの信徒たちへの最後のメッセージとして、私たちキリスト者が真に誇るべきものが何であるかについて教えてくれます。
 今までガラテヤの信徒への手紙の学びを通して見て来たユダヤの律法主義者たちの誇りは、割礼に代表される目に見える律法を徹底的に守り行なうことにありました。そのため、割礼を受けていない、また律法を一つでも守れない人は裁かれ、罪人のレッテルを張られることになったのです。パウロはそのような人を「肉について誇りたい」人たちであると断言しています。しかしいかがでしょうか。私たちの肉とは限りがあるもの、日々衰えていき、野の花や草のようにしぼみ、枯れてしまうような空しいものであると聖書は絶えず教えているのです。
使徒パウロこそ、肉について誇ることをたくさん持っていた人でした。しかし彼はイエス・キリストに出会ったことによって、キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならないと堅く宣言しています。主イエス・キリストを信じる人々を迫害し、キリストの敵として生きていたパウロでしたが、主イエスは十字架の愛を通して彼を赦し、十字架の愛の証人として新しく創造されたのです。同じく、キリストの十字架によって命を得、新しく創造された者たちは、この世の支配下の身分から神の子どもとなる特権を与えられ、真の自由と恵みに与ることになります。だから、罪人の誰もが恵みによって与えられた信仰によって、主イエスが十字架の上で命を捨てて成し遂げられた罪の贖いを受け、神の御前で義なる者として立つことができるのです。救いは愛の神からの対価なき贈り物です。
 “これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです(17節)。”…主イエスが十字架で苦しみを受け、血を流し死んでくださった。また主イエスが死よりよみがえられたことによって、罪人たちを支配していた死は滅ぼされたのです。パウロは最後に、自分の身に帯びている「主イエスの焼き印」について語ります。焼き印とは、動物の所有権を明らかにするために体に押す烙印のことです。すなわち、パウロにとっての焼き印とは、福音伝道のためにパウロが被った苦難によって出来た肉体の様々な傷跡を指します。パウロはそれらの傷跡を見る度に、自分の人生は自分自身のものではなく、主イエスのものであることを確認することができたのです。この焼印は、苦しみの印であると同時に、主イエスと一つになった栄光の印でもありました。
 愛する神の家族の皆さん、あなたには主イエスを信じるゆえの焼き印をもっていますか。その焼き印があなたの誇りとなり、主イエスの十字架の愛と栄光を現わす証しとなりますように・・・。ハレルヤ!