2018.11.11

〜「自己責任」という言葉の愚かさ①〜
 シリアの過激派組織に3年以上も拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が解放されて帰国しました。ところが、帰ってきた安田氏への日本中の反応は、喜びや安堵の声どころか、「自己責任」という言葉による激しいバッシングが沸き起こりました。確かに2004年、イラクで三人の日本人が拉致された時、小泉首相はじめ政治家たちが声を上げて国民に浸透させた言葉が「自己責任」という異質な言葉でした。しかし最初は異質に思えたこの言葉を今は日本中が当たり前に使っている。どこよりも政府とマスコミが先頭に立って広めているような気がしてなりません。
 考えてみると、今も世界中、自分の命をかけて働く日本人がたくさん出かけています。アフリカ、東南アジアなど貧しい地域へ出かけて行って献身的に医療活動をする人々、また中東のイスラムや中国、北朝鮮などの国々で危険にさらされながらも福音を宣べ伝える人々、もちろん安田氏のようにフリージャーナリストとして世界の危険な地域に潜入し取材活動を続ける人々もいます。彼らの働きによって暗闇の地に光が伝わり、正しい情報が私たちの手に届けられるようになったのです。そんな中、彼らを送り出した家族たちは不安を抱きながらも彼らの身の安全を祈り続けているのです。彼らのような献身する人たちの働きがあるから今の日本の国が世界をリードする立場に立っているということを忘れてよいでしょうか。
私たちクリスチャンの立場から考えますと、今から500年前のザビエルから始まった日本宣教の 歴史において多くの宣教師たちの殉教を覚悟しての働きこそが、今の私たちの救いの喜びにつながったのであります。もし、宣教師を送っていた国や周りから「自己責任」と言われ、厳しく責められるような雰囲気であったとすれば、今私たちがいただいている救いの恵みは存在しなかったことでしょう。「自己責任論」こそ「因果応報」の論理の延長線上のものであり、“はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。”という主イエスの言葉にも反している反キリスト教的概念であることを覚えなければなりません。…(つづく)