2018.11.25

《執事による宣教》
『不寛容な社会』
 (マタイによる福音書6:9〜15)
 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14〜15)この箇所は、『主の祈り』に続く、大切な教えです。「赦し」に関しては、ルカ福音書では、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:3〜4)と「一日に七回」あります。マタイ18章では「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』(マタイ18:21〜22)イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」とあります。この二つの福音書の文脈から、イエス様がお話しされた「一日に七回」という教えに対して、ペトロは、「何回まで赦せばよいのか」という赦さなくてはならない限度を聞いています。イエス様が言われた「七の七十倍=490回」ということは、つまり、とことん赦しなさいということです。
 ところで、「赦す」・「赦さない」ということはどういうことでしょうか?主の祈りでは、「わたしたちの負い目を赦してください。」とあります。マタイ18章22節に続く喩えは、王様に1万タラント(1タラントン=6千デナリオン⇒1デナリオンは当時の1日の賃金)という、現代なら莫大な負債を赦されたのに、同僚の60万分の1である100デナリオンの負債を赦さなかった僕が登場します。この喩えの中に「主人は憐れに思って」とあります。非常に寛容な主人です。コリントⅠ13章4節に「愛は寛容であり、愛は情深い」(口語訳)とあります。「赦す」ことは、「情け深く寛容な心」つまり「愛」の重要な性質なのです。一方、「赦さない」は、「不寛容」であり、「人を裁く」行為でもあります。マタイ7:1には、「裁いてはならない。」とあります。
 今日学校や保育園・学童で子どもがケガをすると親が責任を追及し訴えるケースが頻繁にあります。極めて不寛容な社会になっています。不寛容な社会は愛のない社会なのではないでしょうか?私たちは、「赦せない」人がいますか?そして、自分自身を「赦し」ていますか?
エス様のご降誕を待ち望むアドベントを迎えるにあたって、罪ある私たちを憐れに思い、罪を赦すために十字架にかかられた神様の愛に思いを馳せたいと思います。
                S.S兄