2018.11.25

〜「自己責任」という言葉の愚かさ②〜
 “狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ7:13〜14)”
 キリスト者の生き方の基準は聖書の御言葉です。御言葉に生きようとするキリスト者は絶えずこの世の価値観と対抗し、葛藤するはずです。イエス・キリストが歩まれた道は十字架の道で、常に狭い門を選ぶ道です。同じように、現代を生きる私たちキリスト者も、たとえ命の危険が待ち受けているような道であっても、神の国の宣教のために主イエスの足跡に続くことを喜びとするはずです。そして主イエスの足跡に続こうと旅立つ人のために、家族はじめ教会共同体、そしてその人が属している国はその献身を感謝しつつ、祈りをもって応援し見守る責任があるのです。
 もちろん、国家や社会における共同体は、それぞれの体制を維持するために、構成員に「自己責任」を求める時も当然あるでしょう。だからと言って、すべての場合に自己責任という論理が通用するわけではありません。個々人の責任が問われる時もあれば、国家の責任、共同体の責任がそれ以上に重みのあるものとして問われる時があることを忘れてはなりません。国家や共同体が「自己責任」という論理で一人の国民を保護する責任を放棄する時、国民は不幸になりますし、やがては国民が国家を信頼できなくなり、国家を捨ててしまう時が訪れるかもしれない。
 神の家族の皆さん、たとえ国家が、周りが、自己責任という枠であなたを閉じ込めようとする時、あなたはそれに従えますか。もちろん、私たちが何もしなければ何も起こらないでしょう。危険にさらされ苦しむこともないはずです。いつも平坦で広い道を選んで歩めばそれなりに安心できるでしょう。しかし、いかがでしょうか。それでいいのでしょうか。とりわけキリストを主と信じる者として、この世の価値観に支配されて生きることに満足できるでしょうか。もしあなたが御言葉に生きようとするキリスト者であるならば、「自己責任」という言葉がいかに愚かであるかに気づくことになるでしょう。・・・シャローム